黄門様の印籠
現在の日本では、「自閉症」というだけでは障害にはならない。「自閉症」に知的な遅れがあったり身辺自立などの生活上の困難が伴わないと、障害者として認定されない。
それから、「自閉症」の専門家も少ないし、確固とした方法論と設備とスタッフの揃った「自閉症」教育の専門機関もない。
更に、日本人の価値観は「自閉症」的ではないし、日本社会には「自閉症」を受け容れる素地さえない。「自閉症、なにそれ?」ならまだしも、全く誤解された概念が広がっている。
こんな現状では、「自閉症」の診断書は、黄門様の印籠の役割を果たしていない。もし、次のような状況があれば、何らかの効力を持てるかもしれないけれど…。
- 自分自身が黄門様のように偉くなって、有無を言わさず印籠を出しまくる。⇒あくまでも「自分は、こういう人だ!」を貫き押し通す。
- 自分はやんごとなき身分にならなくても、印籠に権威を与える。⇒周囲の人を徹底的に教育して、「自閉症」とはこういうものだと理解してもらう。
- 伝家の宝刀は最後まで抜かずに、心の拠り所にして堪え忍ぶ。⇒実際上の効果は無いけれど、精神的には重要な役割を持つ。
まあ、どれをとっても現実的ではないので、自分と周囲の人とがそれぞれ妥協して折り合いをつけていくしかない、といったところでしょう。
では、「診断」は何の役に立つのか? とりあえず、以下のようなことが挙げられます。
- 能力的な意味での、「出来ること」と「出来ないこと」を見極められる。
- 「感覚・認知の特徴」や「こだわり」といった、特性を知ることができる。
- 合併症や他の精神疾患に対する、適切な薬物療法を受けられる。
- 「自閉症」であることを受容して「自閉症」について知ることが、そのまま、現状改善に直結し今後の方針にもなる。
しかし、必ずしも公的には「診断」が確定していない〈疑〉の段階でも、次のような条件が揃えば民間で互助することはできるし、それで十分救われる範囲の問題もあると思います。
- 打ち明けられる人を探す。(そういう「場」が、あるだけでもいい。)
- 自分の特徴を活かす。(活かす方法を教えてくれる人が、いるだけでもいい。)
- 自分自身で身の安全を図る。(精神的な安定に役立つ情報を、知っているだけでもいい。)
たとえ、ちゃんと「診断」がついたとしても、それで「ありのままの自分」がそのまま認められるわけでもないし、周囲の人がたちどころに「自閉症」を理解してそれなりの処遇をしてくれるはずもないし、元々の在り方自体が不安定なのだから、急に精神的な安寧を得られるというものでもないのです。
「療育」といっても、結局は、自分の特性に合わせた場所や場面の構造化を受け容れて、それによって自分の行動を切り替える訓練をするということです。そして、場数を踏んで、大事に至る前に小さな失敗を繰り返して学習するということです。
そんなに、センセーショナルに何かが変わるわけじゃないんです。
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