黄門様の印籠

現在の日本では、「自閉症」というだけでは障害にはならない。「自閉症」に知的な遅れがあったり身辺自立などの生活上の困難が伴わないと、障害者として認定されない。

それから、「自閉症」の専門家も少ないし、確固とした方法論と設備とスタッフの揃った「自閉症」教育の専門機関もない。

更に、日本人の価値観は「自閉症」的ではないし、日本社会には「自閉症」を受け容れる素地さえない。「自閉症、なにそれ?」ならまだしも、全く誤解された概念が広がっている。


こんな現状では、「自閉症」の診断書は、黄門様の印籠の役割を果たしていない。もし、次のような状況があれば、何らかの効力を持てるかもしれないけれど…。

まあ、どれをとっても現実的ではないので、自分と周囲の人とがそれぞれ妥協して折り合いをつけていくしかない、といったところでしょう。

では、「診断」は何の役に立つのか? とりあえず、以下のようなことが挙げられます。

しかし、必ずしも公的には「診断」が確定していない〈疑〉の段階でも、次のような条件が揃えば民間で互助することはできるし、それで十分救われる範囲の問題もあると思います。

たとえ、ちゃんと「診断」がついたとしても、それで「ありのままの自分」がそのまま認められるわけでもないし、周囲の人がたちどころに「自閉症」を理解してそれなりの処遇をしてくれるはずもないし、元々の在り方自体が不安定なのだから、急に精神的な安寧を得られるというものでもないのです。

「療育」といっても、結局は、自分の特性に合わせた場所や場面の構造化を受け容れて、それによって自分の行動を切り替える訓練をするということです。そして、場数を踏んで、大事に至る前に小さな失敗を繰り返して学習するということです。

そんなに、センセーショナルに何かが変わるわけじゃないんです。


           

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