嘘ではない方便
外見上まったく「普通」の私が、わざわざ「アスペルガー症候群(高機能自閉症)」と名乗っているのには、訳があります。
一つには教育上の意味。そしてもう一つは、精神衛生上の意味です。
私は、自分が「世の中」に納まっていく手段としてこの用語を使っているのではありません。私は、自分と人々との間の軋轢を少しでも軽くしようという事には悩んでいません。それは、学習上の障害がないのと、もともと問題行動を起こさないタイプだからということもありますが、基本的に私はあまり人との係わり合いがない「一匹オオカミ型」なので、社会的な理解度や印象を全く考慮せずに、自分独自の言葉の用法を貫いているだけだからです。
今現在、「自閉症」と診断されている人の中には、「アスペルガー症候群」の人は少ないと思います。何といっても、しゃべれる&ひとなつっこいのに「自閉症」なんて、今までの「自閉症」の概念に真っ向から対立するものだからです。しかし、子どもの頃に「自閉傾向がある」と言われたことのある人は結構いるのかもしれません。いずれにせよ、今までは、狭義の「自閉症」で一生涯「自閉症」と診断される人しか「自閉症」ではなかったのですから、「自閉症ファミリー」とか「自閉症スペクトル」に該当する人たちの多くは、未診断で何の療育も受けずに成長して、現在社会人になっているわけです。
そういう人が、この日本社会で生きて行くために、自分で自分が「自閉症」だと名乗ることはとっても危険だということは、いくら世情に疎い私でも知っています。現時点で、「障害者」という枠に入っていない人がこの名称で自分を紹介しようとすれば、著しい不利益を被るでしょう。まず、「自閉症」という語句の印象が悪いこと。そして、「精神障害」の範疇に入れられてしまうことで。
わざわざ私が「自閉症」と自己紹介しているのは、そうした社会的な立場でこの「障害」をアピールして行こうというのではありません。
私は、もっぱらボランティアとして、発達障害児の療育に携わっています。その基盤にあるものは、自分自身の「自閉症」の感覚と体験です。子ども時代の自分が何をどう感じていたかを想起して、目の前にいる「自閉症」の子どもがしていることを重ね合わせたり、現在の自分が全く同じ状態になったりして「共感」できること。それが、私の財産です。自分がしていたのと同じことをしている子どもを客観的に見て、それを「精神医学」や「哲学」用語で説明することで、自分が主観的に抱いていた漠然とした"感じ"の意味するものを知ることができたから。
しかし、ほとんどの「自閉症」児の親たちは、そういう体験を共有していないので、ついつい非・自閉者の理論で「感情」という尾ひれをつけて解釈してしまう。それは、親たちが本人を理解する妨げになり、本人が自分の家族に「愛着」を形成する際の邪魔になってしまう。そうすると、自分自身を肯定できず、誰をも信じられない人になってしまう。そうなって欲しくない! だから、「自閉症」の物の見方・感じ方・考え方のままで、親たちに答えているのです。
そして、もう一つの願いは、本人たちが精神的な窮地に自分で自分を追い込むことがないようにして欲しい、ということです。
確かに、「自閉症」でいることが自分にとって不都合に思われる時期というのがあります。それは、自分が「みんなに受け入れられるようになりたい」とか「社会人として認められるようにならなければならない」と強く思う時です。「自閉症」者の多くは、全く周りの状況がつかめない&自分自身さえも曖昧なカオス状態から人生の第一歩を踏み出します。しかし、有無を言わさず集団に拘束されなければならない学校というステージで「心の理論」を獲得して、自分が人から強い批判を浴びていることを自覚するようになります。
そして、何とかして「みんなと同じになりたい」「恥をかきたくない」という観念に強迫的に追いたてられます。そうして、どうしても「自閉症」を"恥"として捨てようとしたくなります。或いは、生活上の不都合として取り除こうとしたくなります。中には、自然に穏やかになっていくものもあれば、表面上は消えたように見えても内面でくすぶり続けるものもある。しかし、どうしてもやめられないものもあります。
私自身も、長い間戦い続けました。自分自身の本当の嗜好を通してしまうと、どこにも生きる場所がないことを知ってしまったから。そして、ヌケガラのようになってしまいました。
その時に、自分が「アスペルガー症候群(高機能自閉症)」という「障害」を持っていたことを知りました。そうしたら、今度は、自分自身の本当の感情や感覚の全てを殺して自分で作り上げた「世の中辞典」に自分を当てはめていた現実が一辺に目に入ってしまったのです。そして、自分の気持ちなど何一つないのではないか、自分の考えているものの全ては幻だ、と思ってしまいました。
そこから抜け出すには、自分自身と対決しなければなりませんでした。それは、長いこと「悪しきもの」として封印し続けて来た「自閉症の私」を肯定するための、自分自身との闘いでした。「自閉症でいて、ありのままの私の言葉でしゃべって、良いことなんか一つもなかった!」これは、その時に実際、私が泣きながら叫んだ言葉です。本当に恐かった、身震いするほど。そういう無駄なことは、もうやめて欲しい! その思いが、今の私の原動力です。
「自閉症」でいると、辛いことの方が多いかもしれない。しかし、それは「悪いこと」でも「罪」でもない。それが私なのだから、いくら否定したって完全に逃れることはできません。「出来ないことに一生懸命取り組んで、出来ることもできなくなってしまう」ぐらいなら、始めから、「出来ないことはほどほどに、出来ることには一生懸命取り組む」方がよっぽど良い。
それが、私の結論です。
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