9.陥落



 うっすらと、霧がたちこめている。

 まるで白い闇に包まれているようだ。自分の存在すらおぼろげにしか認識できず、ただ湿った空気がひんやりと身体をなぞる感覚だけが自らを繋ぎ止めていた。

「……私は、何をしているのだろう……」

 嘆息を漏らしながら、自らに向けてセオドールは呟いた。

 彼は、簡単な夜着を羽織っただけの姿だった。寝るときに苦しくないようにと緩やかに結ばれた腰紐は今もそのままで、まるで着崩れたように喉元から胸にかけて白い肌が晒されている。

 しかも、裸足である。

 そのような格好で、中庭にいるのだ。

「私は、夢遊病なのだろうか……」

 呟いて、心の中でその言葉を否定する。

 ここに来るまでの記憶がないわけではない。かなり霞んではいるが、意識はあった。

 目が覚めたら、まだ夜明け前だった。とはいっても、前日は夕暮れ前に眠ったはずなのだから、半日ほど寝ていたのだろう。もう眠れないだろうと判断し、どうしようかと思っているうちに、ふらふらとここまでやって来てしまったのだ。

「そういえば……昨日は何故あのようなことを奴に言ったのだろう……」

 噴水の水面に映る自分に話しかけるように呟く。

 昨日、妹に自白剤を盛られ、悪魔のことを言ってしまいそうになった。しかし、自らを傷つけることによって口を塞ぎ、難を逃れた。そのまま気を失い、目が覚めた後、王家に伝わる剣の魔力について考えていると、悪魔が現れた。そこまでは自分でも理解できる範疇だった。

 しかしその後、悪魔に向かって自分の弱さを露呈してしまった。これが理解の範疇を超えている。いくら自白剤の効果があるとはいえ、自分が情け無い。

「だが……」

 セオドールはそっと、水面の自分に触れる。

 触れた指から波紋が広がり、幾重にも伸びて行く。まるで自分の心の乱れを映すように、水面が歪む。

 ――もしかしたら、誰かに自分の心情を聞いてほしかったのかもしれない。たとえ、それが悪魔であっても。

 ゆっくりと吐息を漏らし、セオドールはじっと水面を見ていた。噴水の中央では水が噴き上がり、落ちて行くが、その水飛沫も届かないほどに離れたそこは徐々に静けさを取り戻して行き、自分を見つめ返す己の顔も鮮明になっていった。

 しかしセオドールは自らの顔を見ることを厭うかのように、水面に触れたままの指を軽く動かし、再び波紋を作る。

 どうも、気分がすっきりしない。

 原因は、悪魔に自分の弱さを晒してしまったことだけではないように思えた。何か、大切なことが思い出せないような気がする。頭の中に読みとれないように霧がかかっているか、何かを無理やり押し込められて鍵をかけられたような気分。

 でも、それが何かはわからない。わからないから、気分が悪い。

 悪魔に話したことすら、よく覚えてはいない。自分から抱きついたような記憶はあるのだが、その後の記憶は皆無だ。この後、何かを言われたような気がするのだが、はっきりしない。もしかしたら、何も言われていないのかもしれない。

「…………」

 水が、水を打ち付ける音だけが響く。

 そのとき、不意に強い風が吹いた。セオドールの銀糸が空中に踊り、周りに植えられた花たちがざわざわとざわめく。

 顔にかかった髪を鬱陶しげに払いのけ、ふとセオドールは空を見上げた。

 空が白い。暗かった空は徐々に光量を増し、闇がかき消されていく。

「夜が……明ける……」

 何があろうと夜は明ける。個人の意志などと無関係に毎日、毎日。

 もし、自分が死んだとしても、それは変わらないだろう。

 ならば自分の存在とは何なのだろうか。貴い血も、権力も、たとえ何を持とうとも、すべて氷のように融けてしまう。思いすら、残らない。

 いつか悪魔が言っていた『刹那を生きるお前たち』という言葉は、何と適切なのだろう。

(だが……)

 ふわり、と銀糸がセオドールの顔をくすぐる。風は弱まり、穏やかになっていた。

(貴様はどうなのだ……? 貴様は永劫を生きるとでもいうのか?)










 慣れないことをすると、調子が狂う。

 早朝から起き出し、庭を散歩したために身体が冷えてしまった。すぐに湯浴みをしたが、それでもなかなか身体が暖まらない。

 珍しく厚着をしながら、セオドールは温かい紅茶を飲んでいた。普段はかさばるのが嫌であまり着込まないのだが、そうも言っていられない。

 時間は、すでにいつも自分が起き出す時刻を過ぎている。あれだけ早く起きたにもかかわらず、いつの間にかそのような時間になっていた。

「セオドール様、アルメリア様がお見えですが……」

 侍従の声に、セオドールは『入れてやれ』と返す。

 ロサ・リカルディーの旅日記は、今朝、念のために書斎の奥にしまっておいた。この居間のほうが居心地は良いのだが、万が一のことを考えて誰も入らないような場所に移しておいたのだ。

 移動したときにそのまま魔界語の勉強でもしようかと思ったのだが、寒気がとれなかったので後回しにすることにした。時間がないわけではないのだから、と自分に言い聞かせて。

 ややあって、アルメリアが侍女を2人連れてやって来た。

「お兄様、昨日は本当に申し訳ございませんでした。それで、その……あの剣の代わりにはならないでしょうが……どうぞお収め下さい」

 そう言って、侍女たちを促す。

 すると侍女たちは持ってきた箱をテーブルの上に置いた。そして、まずひとつ目の箱から中身を取り出す。

「……だから、いったい何に使うというのだ……」

 中から出てきた品を見て、セオドールは額に手をあてて大きく嘆息を漏らした。そのままテーブルに突っ伏してしまいたい衝動がわき上がり、どうにかそれを抑えなくてはならなかった。

 それらは、指輪に杯、卵といった昨日の品だったのだ。

「お兄様、遠慮なさらないで下さい。どう考えても、お兄様の趣向からはずれているとは思えません。世間体など、気にすることはありませんわ」

 断固たる態度で言い放ち、アルメリアは微笑む。

「……お前のその自信は、いったいどこから来るのだ……?」

 セオドールの意志もわずかに崩れ、彼はテーブルに手をついて俯いた。

 この妹の思い込みの激しさは昨日思い知らされたが、その思いがさらに深まっていくのを感じた。

「あら? お兄様、もしかしてまだ具合が悪いのですか? 一日では治らなかったのかしら……? あ、そういえば、傷は……あら?」

 テーブルにかけられたセオドールの手を見て、アルメリアの言葉が途切れる。

 昨日、傷ついたはずのセオドールの指にその形跡がまったくないのだ。傷どころか、傷跡すらない。

「お兄様! 昨日、お怪我をなさったところが治っていますわ! これはいったいどうしたのですか!?」

 アルメリアは驚きの声をあげて、セオドールの昨日傷ついたはずの指に触れる。

 セオドールは自分の指を見る。そういえば、今まで忘れていた。よく考えれば、昨日悪魔が癒していったのだった。

「まさか、お兄様もお薬をお持ちだったのですか? ……せっかくお持ちしましたのに」

 残念そうにそう漏らすと、アルメリアはもうひとつの箱を開けて、中からいくつもの瓶を取り出す。そのうち、緑のラベルが貼られた瓶を手に取ってセオドールに見せる。

「これが傷薬ですわ。これを内服すれば、よほどの傷でないかぎりすぐに治ってしまうという魔法の品なんですって。まあ、かわりにしばらくの間、知能が植物並みに落ち込んでしまうという副作用があるんですけど……」

 何故、そう極端なものばかり持ってくるのだろうか。ここまでくると、呆れを通り越して感心してくる。

「……それを、私に飲ませる気だったのか……? 私は治癒魔法くらい使えるのだぞ……」

 この言葉は嘘ではない。実際に傷を癒したのは悪魔だが、セオドール自身も治癒魔法を修得してはいる。ただ、とりあえず覚えただけというような呪文なので、このようにまったく何の形跡も残さずに傷を治療できるかといえば疑問である。しかし、そのようなことをアルメリアが知るはずもない。

「そういえば、お兄様は魔術学院に留学していましたものね。……それでは、これらの薬も必要なかったかしら……」

 テーブルに並んだ様々な瓶を見て呟く。

「……説明は聞きたくない。持って帰れ」

 色とりどりのラベルが貼られた瓶から目を背け、セオドールは冷たく言い放った。

「ええっ……? 残念ですわ……これなんか、『想いが池の水』といって、望んだ場所に導いてくれるという曰く付きの品ですのに……」

「……何? 何と言った?」

 思わずセオドールは耳を疑った。『想いが池の水』といえば、そのような名のものがロサ・リカルディーの旅日記にも登場していたのだ。

「え? 『想いが池の水』ですわ。望んだ場所に導いてくれるという話ですけれど……本当かどうかはわかりませんわ」

 もう一度アルメリアの話を聞いて、セオドールはそれがロサ・リカルディーの旅日記にあったものだと確信した。旅日記には魔界語でのっていたが、説明を聞くかぎり同じものとしか思えない。

「……それは、どこから入手した?」

「それは……えっと……お父様とお母様には黙っていてくれます?」

 上目遣いにセオドールを見上げ、アルメリアはばつの悪そうな顔をする。セオドールは何も言わず、ただ頷く。

 するとアルメリアは侍女たちに部屋の外で待っているようにと、人払いをする。

「……魔術学院の裏研究室ですわ」

 侍女たちがドアを閉めるのを確認してから、アルメリアはそっと囁くように言った。

「ほう……」

 思わず感嘆の吐息を漏らすセオドール。

 魔術学院の裏研究室といえば、学院に通っていた自分でも実態を見たことはない場所だった。しかし、名前だけは聞いたことがある。報酬次第で毒薬でも何でもお望みの薬を調合するとか、魔法の品の売買を行っているというところである。主に、あまり他人には言えないような品が取引されるという。

 そのようなところと繋がりがあるとは、なかなか侮れないなとセオドールはアルメリアに対する認識を改めた。『倫理上の問題』という言葉など、セオドールの頭にはない。自分自身、悪魔と繋がりを持っている身である。それを棚に上げてどうこう言えるはずもない。

「ここにあるすべての品は四日前に注文しました。セオドールお兄様に私の部屋まで来ていただけるように。でも、これだけでは足りないかと思ってあの剣を持ち出したのですが……」

 アルメリアは『愛の告白大作戦』のためだけにこれらの品を用意したのだ。なかなか涙ぐましい努力といえないこともない。セオドールには迷惑なことだったが、しかしそれもこのような収穫につながるのだから、どうなるかわからないものである。

「裏研究室に魔剣はなかったのか?」

 もし、あったのならばそちらを手に入れたほうが手間はかからなかったはずだと思い、尋ねてみる。

「ないわけではありませんでしたけど……今あるのは大したことのないものばかりで、新しいものが入荷するまでには時間がかかると言われました」

 アルメリアの言葉に、なるほどとセオドールは頷く。

「そうか……。ところでアルメリア。昨日、お前が私に薬を盛ったこと、その『想いが池の水』をよこすことと、裏研究室のことを教えることで許してやる」

 セオドールはそう切り出した。

「えっ!? 『想いが池の水』は構いませんが……裏研究室は……ちょっと……」

 狼狽えるアルメリア。他のものでは駄目かと言うようにセオドールを見る。

「裏研究室は?」

 アルメリアの訴えるような視線など無視して、もう一度セオドールは繰り返す。口元には微笑みを浮かべて。

 それは傲慢な笑みだった。私が尋ねているのだから、お前は答えなくてはならないのだと言っているようだった。

 同じ表情を浮かべた、氷の鋭い瞳がアルメリアの瞳を捕らえる。すべてを凍り付かせるような、冷たく、美しい蒼が。

 アルメリアは目をそらすことも、身動きすることすらできなかった。まるでその瞳に凍り付かされ、溶けることのない呪縛に捕らわれたというように。

 自分から目をそらせない妹の様子にセオドールはさらに口唇の端を吊り上げると、その手をアルメリアの髪にのばし、金色の髪を優しく撫でる。そして妹の額に口唇を軽く触れた。

 そこまでだった。

「…………」

 アルメリアは頬を上気させ、目を潤ませながらセオドールの耳元でそっと何かを囁いた。

「……そうか。わかった。では、昨日のことは許してやろう」

 傲慢な笑みはそのままに、満足そうにセオドールはそう言った。

 そしてアルメリアの頭を一回撫でると、妹から離れて魔法の品の物色に取りかかる。

「お兄様……お変わりになりましたわ……」

 その姿を見ながら、どこか夢見心地のまま、アルメリアはほうっというため息とともに呟きを漏らした。

「……必要なものはこれだけか。アルメリア、後は持って帰れ。邪魔だ」

 妹の呟きなど無視して、セオドールはあくまでも自分の用件のみを述べる。

 言ってから、虚ろな表情で自分を見つめたまま動こうとしない妹に、セオドールは不審の眼差しを向けた。

「どうした? もう用はないのだろう? ならば、早々に帰れ」





第8話へ  第10話へ

「氷の魔剣」目次に戻ります TOPに戻ります