|
魔界宰相であるロードナイトは、山のように積まれた書類に埋もれかけながら、黙々とペンを動かしていた。 昨日はあのプレファレンス王子につい構い過ぎてしまったようだ。 仕事が滞っているだろうと思い、今日は早めに登城したのだが、思ったよりましな状態で少々拍子抜けしたくらいだった。 だが、まだ安心はできない。 「どこぞのヒマな武官が遠路はるばる書類を抱えてやって来るかもしれないしな」 苦々しく呟く。 「……何かおっしゃいましたか?」 書類整理をしていた執政官の一人が、ロードナイトの独り言を聞きつけて尋ねる。 「いや、何でもない。気にしないでくれ」 軽くため息を漏らし、ロードナイトは一旦止めていた手を再び動かす。 その時だった。 トントン……と、ドアをノックする音が響いたのだ。 「……っ!」 ロードナイトは全身の毛が逆立つような、ぞっとする感覚に見舞われた。 嫌な予感が現実となったことを確信したのだ。 「元気そうだな。決裁前の書類はここか?」 予想通りの人物が現れ、予想通りの行動をする。 どこぞのヒマな武官が遠路はるばる、仕事をロードナイトに押しつけに来たのだ。 来訪者はロードナイトの非難の視線も意に介することなく、決裁前の書類の山に自分の持ってきた書類を積み上げる。 周囲で書類整理をしている執政官達は、決してロードナイトや来訪者を見ようとしない。ひたすら自分の手元の書類のみに意識を集中させる。 「……いい加減にしてくれませんか?」 何かを押さえつけたような低い声でロードナイトは呟く。 しかしそれに答えることなく、来訪者はつかつかとロードナイトに近づいてくる。 長いダークブルーの髪がさらさらと音を立てて揺れ、紫色の瞳は前方の一点のみを見つめたまま優雅に歩み寄る。 優男という言葉が相応しいその姿は、あまり武官らしくない。どちらかというと文官であるロードナイトの方が武官らしく見える。 やがて机を挟んで両者が対峙する格好となり、来訪者は口元にどこか歪んだ笑みを浮かべた。 「お前は、俺の両腕だ」 耳に心地よく響く美しい声。 だがロードナイトにとっては、この上なく不快に心を掻きむしる声だった。 「……普通は、右腕でしょうが」 自分の手を動かす気はない、ということだろう。 さらに言えば、右腕とするのもおかしい。魔界宰相である自分を右腕と呼べるのは、本来魔界帝王ただ一人だろう。 「俺がお前を大事に思っていることの表れだ」 平然とそう返してくる。 「…………」 確かに、大事なのだろう。 自分の仕事を押しつけることができるのだから。 「その証として、俺自らこうしてやって来ているだろう」 それもその通り。 これでもこの相手は高官の一人なのだ。本来、書類運びなどする身分ではない。 「……たまには、自分の仕事くらい自分でしたらどうです?」 今日こそは言ってやろうと思い、ロードナイトは相手を睨み付けた。 紫色の瞳と、それをそのまま淡くしたような色の瞳がぶつかる。 「そういえばお前、男を囲っているんだって?」 不意打ちのような言葉に、ロードナイトは思わず机に突っ伏しそうになる。 「なっ……?」 そんな覚えはない。というより、そういう趣味はない。 だが心当たりはある。 昨日、拉致させてきたセオドールだ。 「嫌だねえ、俺の血を分けた奴がそういう趣味だとは」 にやにやとした笑いを浮かべながら、目の前の相手はそう言う。そしてロードナイトが言い返すよりも早く、足早に部屋を出ていってしまった。 体よく仕事を押しつけられてしまったのだ。 「…………」 ロードナイトは俯いたまま、ぐっと拳を握りしめる。 しかし仕事を押しつけられたことよりも、昨日拉致させてきたばかりのセオドールのことがすでに知られているということのほうが重要だ。 今押しつけられた仕事は、部下にでも押しつけることにして、今日は少し早く帰って対策を練ろうとロードナイトは決意していた。 わずかな召使い達と共に館に閉じこめられているセオドールは、おおむね快適な生活を送っていた。 自分の周りにある魔力の込められた品を見れば、多少の生活の不自由さなどどうでも良くなってくる。 彼は上機嫌のまま、本日何度目かの物色に出かけた。 そこで変わったものを見つけたのだ。 「……?」 それは埃をかぶった絵だった。魔力が込められているというわけではないが、少し気になる。 セオドールは埃をはらって、明かりの下に晒してみる。 そこに浮かんだのは、家族の肖像とも言うべき絵だった。 今までに何度となく見た銀の女王の姿がまず目に入る。次に三人の子供達。そして、最後にまったく見覚えのない一人の男。 三人の子供達は、幼いながらもロードナイトやアステールだとわかる。カリーナはプレファレンスに幼い頃の肖像画も残されているから、疑いようがない。 しかし残る男のことは知らない。ダークブルーの髪に紫色の瞳、そして口元には冷笑のようなものを浮かべている。この絵の中では、ロードナイトが一番似通った姿をしているだろうか。 この構図からして、これがおそらくロサ・リカルディーの夫なのだろう。 「見てしまったか」 後ろから突然、声が響く。 思わずセオドールはびくっと身体を震わせ、手にした絵を落としそうになってしまう。 何とかこらえておそるおそる振り返ると、そこにいたのはアステールだった。 「……見てはいけないものだったのか?」 震えそうになる自分を叱咤し、上辺だけは平静さを装って問いかける。 「いや、別段構わないが」 あっさりと返ってきた答えに、セオドールは思わず眩暈を覚えた。 「顔色が悪いが、体調が芳しくないのかね? 部屋で休んでいた方が良い」 人の気など知らず、アステールはそう言ってくる。 それでもわりとまともに気遣われているので、セオドールは少しほっとする。 「尋ねたいことがある」 気を取り直してセオドールは言う。 「何だね?」 「これは誰だ?」 肖像画に描かれた、ロサ・リカルディーの夫と思しき人物を指す。 「君の祖先だ」 「……ということは、ロサ・リカルディーの夫か?」 「その通りだ」 「素性は?」 「魔界公爵家の当主」 「性格は?」 「嫌な奴だよ」 違う声が混ざる。 「おや、ロードナイト兄上。お早いお帰りですな」 いつの間にかロードナイトがそこに立っていたのだ。 「まあな。ちょうどいい具合にエフィアルテスが現れたから、仕事は全部任せてきた」 くくく、と低い笑い声を漏らしながらロードナイトは笑顔を見せる。 セオドールはそれを直視することができず、視線を逸らしてしまった。 「それよりも、セオドールがここにいることがすでに知られている」 「何か問題でも?」 「好奇心旺盛な連中が見物に来たら、セオドールが精神に異常をきたす恐れがある。最悪、生命すら危うい」 「なるほど」 「早急に人よけの結界を張るなどの手段を講じる必要がある」 淡々とした会話を聞きながら、セオドールは頭痛を感じていた。 自分が精神に異常をきたすような連中とは、いったいどのような者達なのだろうか。 「というわけで結界を張るのはアステール、お前に任せた」 「まあ、それが妥当でしょうな」 「俺は連中の視線を別の所に逸らしておく」 真剣な顔の二人を見て、セオドールは宙を仰いでそっとため息を漏らした。 「……何故、そこまで気遣われなければならないのだ?」 ぼそっと呟く。 「お前は、魔界を甘く見ている」 その呟きを聞き咎めたロードナイトは、アステールに結界を張りに行くよう促すと、セオドールの腕を掴んで玄関まで引きずるように連れて行った。 そして扉を開けて、外に出る。 「さあ、普通に歩いてみろ」 ロードナイトは掴んでいたセオドールの腕を放す。 何を言っているのだと口を開きかけた途端、セオドールは激しい眩暈に襲われて倒れそうになった。 身体に不快な空気がまとわりついてくる。それはまるで意思を持っているかのように絡み付き、セオドールを苛む。 当然、歩けるような状態ではない。 倒れかけたセオドールをロードナイトが支え、館の中に戻って扉を閉める。 館の中に戻ってもセオドールは激しく咳き込み、しばらくは会話などできる状態ではなかった。 「ほら、少し魔界の障気にあたっただけでこれだ。あの障気の中を引きずり回されて、無事でいられると思うか?」 セオドールは首を横に振る。 「だろう? この館は障気を防ぐようにしてあるんだ。ここからお前が連れ出されでもしたら、どうなるかわかるな?」 セオドールは頷く。確かに、生命すら危ういかもしれない。 「そういうことだ。今、障気にあたったせいで体力を消耗させてしまったから、部屋で休んでいろ。……メルヴィナ」 ロードナイトの呼びかけに、少女が姿を現す。 「お呼びでしょうか」 「セオドールを頼む。部屋で休ませてやってくれ」 「かしこまりました」 メルヴィナは深々と礼をして、未だ足下のおぼつかないセオドールに付き添う。 悪かったな、と言い残してロードナイトは背を向ける。 「……待て。ロサ・リカルディーはどうだったのだ? 彼女は障気にあてられなかったのか?」 苦しそうな声でセオドールは尋ねる。 声を出すのも辛かったが、これだけは確かめておきたかった 「……何かにつけて母上と比べることはやめたほうがいい」 ロードナイトは少し迷ったようだったが、振り返ってこれだけを言うと、今度こそ去っていった。 今朝方、悪魔――エフィアルテス――に言われた言葉が重なる。 しばしセオドールは目を閉じて、軽く吐息を漏らした。 「……そうだな、その通りだろうな」 ぼそっと呟く。 「……?」 メルヴィナが軽く首を傾げる。 「何か、暖かいものが飲みたい」 セオドールは脈絡のないことを言う。 「お部屋に戻ったらお入れします」 「頼む」 何も追求してこないのが嬉しかった。 そして何故か、里帰りしている自分の目付役のことがふと頭をよぎった。 |