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幼い頃の夢を見ていたような気がする。 ぼんやりとそう思いながらセオドールが目を開けると、まず視界に入ったのは一輪の白い薔薇だった。 「……?」 横たわった姿勢のまま、セオドールは手を伸ばして薔薇を拾い上げる。 プレファレンスの紋章にもなっている白い薔薇。幼い頃、今は亡き祖母に手を引かれて薔薇の咲き乱れる庭園を散策したことを思い出す。 そっと顔を近づけてみると、懐かしい香りがした。 いったい誰がこの薔薇を持ってきたのだろうと思い、周りを見回すとそこにはいつもの見慣れた景色はなかった。王子宮の自分の寝室とも、留学中の屋敷の寝室とも違う。 そういえば、自分は今魔界にいるのだ。 「お目覚めですか?」 そのことを裏付けるかのように、聞き覚えのない声が響く。少女の声だ。 セオドールは上半身だけを起こし、声の主を見る。 肩のあたりで切りそろえられた黒髪に、紫色の瞳の少女だ。見た目はセオドールよりも2、3歳ほど下に見える。 ここは魔界なのだから人間ということはないのだろうが、瞳の色が少し気になる以外、外見的にはまったく人間と変わらないように思えた。 「私、セオドール様のお世話を申しつかりましたメルヴィナと申します。人間の言葉は不慣れなため、ご無礼があるかとは思いますがどうぞよろしくお願いいたします」 そう言ってメルヴィナは恭しく頭を下げた。 見た目ではよくわからないがやはりこの少女も悪魔なのだろうと思いつつ、セオドールはよろしく頼むと頷く。 「そういえばこの薔薇、誰が持ってきたのだ?」 軽く薔薇を揺らしながら、セオドールは問う。 「申し訳ありませんが、存じ上げません」 事務的な声でメルヴィナは答える。 「そうか……」 薔薇を見ながらセオドールは呟く。 「現在、下働きの者以外でこの館に出入りされている方々は、ロードナイト様、アステール様、エフィアルテス様のお三方だけです。このお三方のどなたかでございましょう」 「エフィアルテス?」 初めて聞く名だった。 「それよりもお食事のご用意が整っております。どうぞ食堂にいらして下さい」 セオドールは追求しようとするが、それよりも早くメルヴィナはそう言って一礼すると、部屋を出ていった。 一人取り残され、セオドールは昨日のことを思い出そうとする。 おそらくエフィアルテスとは、昨日すぐに姿を消した黒髪の青年のことだろう。あの姿は初めて見たものだったが、彼が誰であるかは察しがつく。 「……貴様か?」 セオドールは薔薇に向かって呟くが、無論答えはない。 そっと薔薇をテーブルに置くと、セオドールは食堂へと向かった。 食堂にはロードナイトやアステールもいるのかと思ったら、誰もいなかった。 メルヴィナに尋ねると、ロードナイトはすでに城で仕事中、アステールは研究室に閉じこもっているとのことだった。 そもそもこの館はロードナイトの所有物だが普段は使われておらず、ほとんど倉庫となっているらしい。 食事を取り終え、セオドールは館内を探索してみる。 おおよその説明は昨日ロードナイトから聞いたが、昨日は疲れ切っていて探索どころではなかった。 実際に一つ一つの部屋を回ってみると、先程の倉庫になっているとの言葉通り、色々な物が無造作に押し込められた部屋が多い。しかも、置かれているのはほとんどが魔力の込められた品だ。 一通り探索を終えると、セオドールは気に入った品を数点持ち出し、自分に割り当てられた部屋に戻った。 「……ん?」 部屋を出るときにテーブルの上に置いていった薔薇が、青い一輪挿しに生けられている。 セオドールは持ってきた荷物を置き、テーブルに近づく。 この薔薇には思い出がある。幼い頃、唯一感じた幸せと、最も悲しかったこと。 「お気に召して頂けたかな?」 背後から声がする。 「……ああ」 振り返らず、セオドールは答える。 「珍しく素直だな」 微かに笑い声が響く。 「おかしいか?」 ゆっくりとセオドールは振り返る。 そこにいたのは、黒髪に金色の瞳の青年だった。 昨日、一度だけ見た姿だ。 「……いや、良いことだ」 再び笑う。 「それが貴様の本当の姿か? 悪魔……いや、エフィアルテス」 無表情な蒼玉を目の前の相手に向ける。 「おや、もう名前までご存知だったか。……その通り、これが私の本当の姿だ」 不思議なことに、影に覆われていた時と全く印象が変わらない。 美しい姿ではあるが、その姿から感じるものは影や闇といった種類のものだ。 「……貴様は何故、私の前に現れる?」 ずっと抱いていた疑問を投げかけてみる。 いつも契約を、と言うわりには実際に契約を結ぼうとしているとは到底思えない。 「お前の魂が欲しいからだ」 「嘘をつくな」 セオドールはエフィアルテスを睨み付ける。 「貴様が契約を結ぶ気などないことは知っている。力ある者ならば、私の承諾が無くとも血さえあれば契約を築き上げることが可能なはずだ」 「ほう……よく知っていたな。まあ、それにはやたらと長い儀式が必要なので、行う者は滅多にいないのだがな」 エフィアルテスは手を伸ばしてセオドールの銀の髪に触れる。 「だが、先程の言葉に偽りはない。そして、無理矢理築いた契約では意味がないし、お前が自分から契約を結ぶことはないことも知っている」 銀糸をゆっくりと撫でながら、エフィアルテスはそっと囁くように言う。 「……どういうことだ?」 怪訝そうな顔で問うセオドール。 「さあ、な。自分で考えてみるといい。……だが、お前が答えにたどり着くことはないだろう。私もそれでいいと思っている……」 口元にどこか淋しげな笑みを浮かべ、エフィアルテスは呟く。 「…………」 眉根をよせ、セオドールはエフィアルテスを見る。 何を言っているのか、さっぱりわからない。 「わからないだろう? それでいい」 喉の奥で笑いながら、エフィアルテスはセオドールの頬を撫でる。 馬鹿にされているようでいささかむっとしながらも、セオドールはその手を振り払うことはしなかった。 「そういえば、貴様はロードナイトやアステールとどういう関係だ?」 この館に出入りしている者は、ロードナイト、アステール、エフィアルテスの三名だけだと聞いた。ロードナイトとアステールは兄弟だが、エフィアルテスはそうではないだろう。 「ああ……私とアステールは昔からの友人だ。お前の祖先、銀の女王とも面識がある」 「何だと……!?」 セオドールは目を見開く。二重の驚きだ。 「あの、アステールと友人だと!?」 「……まずはそっちか」 ぽつりとエフィアルテスは呟く。 「まあ、確かにアステールは変人だ。何故友情が続いているのか、私も疑問ではあるがな……」 軽く宙を仰ぎながらエフィアルテスは言う。 「……ロサ・リカルディーと面識があるとも言ったな。彼女はいったいどういう人物だったのだ?」 この質問はロードナイトにした方が良いのかもしれないが、とりあえず聞いてみる。 「……あまり、答えたくない質問だな」 エフィアルテスはぼそっと漏らす。 「お前はアステールに恐怖を感じたかもしれないが、アステールよりも彼女の方がよほど恐ろしい。……恐ろしさの方向性は違うが」 やや声を潜めながらエフィアルテスは答える。 「…………」 悪魔相手にここまで言わせるとは、ロサ・リカルディーとはいったいどこまでの背徳者だったのだろう。セオドールはまたも頭痛を感じた。 「お前はいつも彼女のことを見てきたようだが、お前は彼女を目指す必要などない。……そろそろ気付いてもよい頃だろう?」 「……何だと?」 一瞬、何を言われたのかわからなかった。 「もっとも、その脆さ故にお前は美しいのだが……」 エフィアルテスはセオドールの銀糸に口付けると、すっと離れる。 そしていつも通り空間を歪ませ、あっという間に姿を消してしまった。 「…………」 セオドールはエフィアルテスの消えた辺りを見ながら、じっと考え込む。 確かに、もう一度自分の進むべき方向を見直す必要はあるかもしれない。城に置き去りにしてきた問題もある。 時が止まらない以上、進むしかないだろう。絶えず時間は流れ、変化し続ける。 ただ、あの悪魔の唐突に現れては去っていく姿だけは、初めて見た時から変わっていなかった。おそらくこれはこれからも変わらないのだろうと、微かに苦笑を浮かべながらセオドールは嘆息を漏らした。 どこか安堵したような嘆息だった。 |