「同じマンションに、同じ幼稚園に通っているお子さんがいるんですけど、その子が毎日幼稚園が終わると遊びに来るんですよ。 来たら、うちの子のおもちゃを自分のおもちゃみたいにして遊んで、うちの子が遊びたくても遊べないんです。 ええ、うちの子、横で見ているんです。 そのお子さん、とってもわがままなんですよ。 私のところへ来て、『ジュースが飲みたい』 とか 『お菓子ある?』 とか言うんですよ。 あるのに 『ない』 とも言えないし、あげないわけにもいかなくて、困っちゃうんです。 幼稚園から帰ったら、5分もたたないうちに来るんですよ。 で、夕方まで目いっぱい遊んでいくんです。 その子が来ると、もう、いらいらしちゃって、私、なんにもできないんです。 その子のお宅、下の子が1歳になったばかりでね、お母さんが忙しいんですよね。 上の子をかまってやれないんですよ。 だから、うちへ来てわがまま言うんだと思うんですけど‥‥」
電話相談の母親は、必ずしも相談の本題を要領よく簡潔に語るとは限らない。 いや、むしろ、そうでない場合のほうが圧倒的に多い。 自分の状況や気持ちの全てをわかってほしいという思いからか、このような状況説明と思いの訴えから話が始まることが多い。 状況説明はしばしば延々と続く。 胸の中につまっているものを出してしまわないと止まらないとでもいうように、30分、40分もひたすらしゃべり続ける相談者もいる。 次第に登場人物が増え、話はあちらにこちらにと広がり、話はどこへ向かっていくのか、主題はどこにあるのか‥‥と、こちらも一緒に迷走することも少なくない。
相談者の気持ちとペースに寄り添いながら行う相談の会話は、そんなわけで1時間を超えてしまうことも珍しくない。 それが遠距離からの相談であったりすると、会話時間が長くなるとともに通話料が気になりだす。 しかし、そんな心配は無用とばかりに、母親の話はなかなか 「エンド」 に向かわない。 それほどに相談する母親は 「話したいこと」 がいっぱいあるのだ。 いやいや、もっと正確に言うなら、それほどに 「聞いてほしいこと」 がたくさんあるのだ。
子育ての相談と言えば、寄せられた具体的な 「問題」、例えば 「指しゃぶり」 とか 「排泄の自立」 とか 「登園拒否」 などの問題の相談に応じ、共に考え解決の手助けをするというのが一般的な理解であると思われるが、本当のところは 「私の話を聞いて」 という母親の叫びを受けとめる部分が非常に大きい。 また、それが充分にできないことには、具体的な 「問題」 の相談そのものが成立しないのである。
「ありがとうございました。 話を聞いていただいて、気持ちがすごく楽になりました」 というのは、相談の締めくくりにしばしば出てくる母親の言葉である。「アドバイスをいただいて、たいへん参考になりました」 より、断然多い台詞である。 そして、「聞いていただいて‥‥」 の後にはこんな言葉が続いたりする。「こういうこと、誰にも話せないでしょ。主人は帰りはいつも遅いし、こういう話は嫌がりますしね、幼稚園のお母さんのお友達には絶対に言えませんものね」 と。
家庭にいる母親は、子育ては自分の責任分担と考えている。 夫は協力してくれるかもしれないが、協力はあくまで協力。 子育てとその周辺事態を一手に引き受け、万事うまくやるのが私の役割と、母親はひとりがんばる。
子どもは喜びもたくさんもたらしてくれるが、同時にトラブルや心配、悩みも次から次へと絶え間なく提供してくれる。 辛いときもうれしいときも、人は語り合う動物である。 母親もまた、それら日々の喜びや悩み、うれしさや辛さを言葉に出して語り、その心を誰かと共有したい。 時には叫びたいし、愚痴も言いたい。 自分が間違っているとわかっていても言わずにはいられないこともある。 自分の話に耳を傾けうなずいてくれる存在、気持ちを受けとめてくれる存在がほしいのである。
身近な誰かにそんな存在を求められればよいのだが、「子育ては母親の責任」 と、ひとりでしょいこんでしまった母親にはそれもできない。 そんな母親にとって、電話相談は日々の子育て生活のなかで胸の中にいっぱいためてしまった「聞いてほしいこと」を聞いてもらえる場なのだろう。
「話を聞いていただいたら、元気が出てきたような気がします」 と受話器を置く母親の言葉に、少しは力になれたのかなとホッとするとともに、電話がそのような役割を引き受ける子育ての現状を、どこか変だなと思わずにはいられない。
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