今はどうなっているか知らないが昭和20年代の終わり頃、日本橋三越本店のはす向かいに不二家のレストランがあり、その脇の道を入ったところに文明堂があって店先でドラヤキをやいていた。その香ばしい匂いに魅せられて時々覗いたが、その体験が後の卵つくりの原点になった。当時文明堂で使う卵は牛込の宇津木商店が一手に納めていたらしいが、この当時の卵はまだ古文書にいう[卵のにほひとかをり]をちゃんと備えていた。
それが昭和30年代も後半になると鶏の餌原料の単品化と高カロリー化が進み、前述の森山サチ子さんの言われる「昔は卵の香りを楽しみながら作りました。いまはにおいをさましてから食べなきゃなりません」に変わってしまった。このことは卵好きな消費者の広く感じたところだったが、そのことについて商品界という雑誌で解説した業界人は「昔は保存食として古い卵が中心に出回っていたから味があった。いまは卵が新しいからそれがないのだ」と解説した。たしかに餌の配合バランスがよければそういうことがいえる。しかし実際には今の卵は古くなると青臭くて食えなくなるのだ。 そんなことから、のちに玉川高島屋の麓部長から新しい卵つくりの相談を受けた際、もう一度昔のバニラなどを使わない卵の香りだけのカステラを再現し玉川店内のクックリークックを使って実演販売しようと提案したのがお菓子用卵だった。とりあえずの名前は目の前で見ていたNHKドラマ、手塚さとみ主演の[ハイカラさん]のシーンから借用して安直に[鹿鳴館]とした。朝日新聞の遠山さんも書いたが、あの華やかな鹿鳴館時代はつかの間に終わった。まさかそんなお菓子用に限定した使い難いともいえる卵が高島屋で30年近くも長続きするとは思わなかった。因みにそのとき卵に付した[超特選]の文字の意図するところは豊富なダシを使いながらその匂いを偏らせない工夫をその卵に関してだけは綿密に行っていたからに他ならない。 ついでだから卵の原料である餌と卵の味との関係について掘り下げてみよう。戦後の昭和20年代、鶏を飼っても餌の入手に苦労した。そこでありとあらゆるものを飼料として試みたが前述したとおりエビガニで赤い卵、タニシで黒い卵、池のオタマジャクシでは鶏がみんな死んでしまった。その当時は沢山あった綿実粕をやると黄身が固まってしまった。今なら黄身が箸で持ち上がると喜ばれるところだが冗談じゃない、黄身は出来るだけやわらかく作るのが旨い卵にするコツなのだ。脂質を固めてしまった卵では料理の仕様がなくコプラミールで固めた豚肉と同じで始末が悪い。こんないわゆるスポンジ卵まがいがもてはやされるようになると本当に旨い卵は出来っこない。そんな数ある失敗のなかでも特筆すべきは豆板つまり圧搾大豆粕の給与であり、出来た卵は青臭くて食えたものではなかった。その時、卵の味の大敵はそれまでいわれていた魚臭さ(トリメチルアミン)ではなくて青臭さ(ヘキサナール)であることを悟らされた。 (地卵つくりあれこれ)から しのはら いちろう |