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鹿友会誌(抄) 「第四十一冊」 |
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佐藤良太郎氏
の思ひ出 宇都宮多歌 明治三十七年、日露戦争の真最中であったと思ふ。日本女子大学校の幹事堀茂太郎氏 から、姪の静子を佐藤良太郎氏へ貰ひたいといふ話があった。弟凡平はまだ出征前であったから、 其衝に当って貰ふことにした。縁談は意外に捗って、或夜牛込の堀氏のお宅で見合の事が 行はれた、先づお婿さんにお目に懸ると、あなたには毎日お出会して居りましたとの御挨拶に、 それはまあと驚いて、お顔を見上ると、小石川の指ケ谷町から早稲田大学へ、小石川の林町から 女子大学への通ひ途で、いつもお目にかゝって居たことがわかった。こんな次第で、誠にくつろひだ 数時間が過ぎ、万事はすらすらと運び、翌年の一月、其年の冬、上野の梅川で結婚の式が滞り なく済みました。此梅川に定められたのは、静子が梅を愛した理由であったと思ひます。 翌明治三十九年の初夏、草餅のかをりゆかしき頃、久しく主人なく、御老婦達が健気にも 男なき旧家を守り、一人子息の生業を待ちこがれて居られた家郷をさして、夫婦相伴ふての 目出度き出立を上野駅にお見送りしました。 第一回秋田行、私が初めて同家を訪ねた頃、良太郎さんは弘前に入営中であった。長男良雄 の出産前に、母が丹後から見舞に行かれるので、私も校用を兼ねて、東北地方へお伴する事 になった。六月廿七日、花輪のお宅へ着いた時に、其朝既に安産があったといふので、瑞気に みちた門を入って、大に落ついたのでした。此時は主人には遂にお目にかゝらずに帰京した。 |