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鹿友会誌(抄) 「第四十一冊」 |
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△佐藤良太郎氏の思ひ出 越へて明治四十五年二月十九日、岩田稀子がお父さんが花輪からお帰りになって、佐藤のお兄さんは 幾らかお快方に赴かれたとて、お土産を持って来てくれました。一月十三日から腹痛を覚へられた のですが、お若いことでもあり、日頃御丈夫の方ですから、程なく全癒さるゝことゝ、あまり気にも かけて居りませんでした。二月二十三日、水道町の凡平の宅に立寄り、佐藤さんの容態をきゝ、 一先づ安心したり、又家庭は西洋館もあり、温室には美しき花満ち、室内にはストーブも燃えて、 富有に暮して居る由、丹後にも母家の新築が始まり忙しきよし、何と申しても田舎は暮し よさうなどと話合って帰宅いたしました。 其後大分快くて、室内歩行もそろそろ出来るとの便りもあったので、大に安心して居ったが、 四月十七日「今立ち花輪に行く同行頼む正雄」といふ電報を受取り、私は直に行って静子を 慰め、病人にも親しく会いたいのは山々ながら、折柄校務はいやが上にも多忙を極め、人手の少い 所から、夕方迄せつせと働いて居る所へ、正雄着京、万障を排して第二回の秋田行を決行した。 十八日午後八時三十分、上野発青森行列車に乗り、大館に着いたのは十九日午後六時、上野から 二十二時三十分間であった。此所へ田村酒造三さんがお迎へ下さって、久し振にお目にかゝった。 同氏は佐藤結婚当時、同家に居られたのであった。先づ病人の容態を見ると、衰弱は甚だしいが、 先づ変りはないとの事、話は出来ますか、出来ますとの事であった。……………… 夜は大里國手のお見込をきゝ、親族会議のやうなものが開かれた。東京から医者を呼ぶか否や、 尾去澤の浦井氏を招く事、又柏田氏の来診を乞ふ事、万一の場合の後事につき、懇ろ相談もあった。 静子の将来につき、近親の間に二説に別れて居たが、静子は何処迄も遺業を継続したい意見のやうで あった。 二十一日、病床を見舞ふて居ると、柏田氏来診、到底駄目といふ宣告を与へられたをりとて、 命且夕に迫るといふでもなし、正雄の召集に事欠けてはならず、誰か近親の男子来りて静子に力を 添へ、後事の処置もなさゞるべからず、凡平さんを頼まんか、公務捨て難く、兎も角私は一足先に 帰京して、其相談をなし、止むを得ざれば、丹後の兄姉の東上を願ひ、正雄も許す限り滞在して、 看護することに決し、私は此日正午、出立することに決した、丁度浦井氏も来診され、同様の 診断であったから、万事を願ひ置きお暇乞をした。……………… 北郊清気充満地 堅忍不抜新機軸 業就緒忽然逝矣 誰克此偉業継続 玉といふ玉の中にも此玉に かゆべき玉もあらぬ此玉
(終)
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