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鹿友会誌(抄) 「第四十一冊」 |
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△亡友の思ひ出 …亡友逸事彙… 五、田村勇太郎君 青年時代の君は、業平を以て自任し、男より女に秋波春思を送るが如きは、自卑するの甚だしき ものにして、最も愧かしきことなり、女我れに思召ならば、我が膝下に跪け、との理想を持って居る 人であった。其の色男、鼻にブラ下げて居るのは癪だと、却て尾山の淑女に好評なし、従ふて君は 比較的品行方正の人であった呵々。 或る年の鹿友会総会を、神田錦河岸の寶亭に催す。酒三行興湧き、各々十八番のダンピングは 始まった。田村君「アメリカ来たとて何んにもオカナクナイ……」の秋田音頭を踊る当時の 鹿友会員には、気の毒にも、秋田音頭など踊れる粋人は一人も居らない。一同唖然たりであった。 田村定四郎氏など其の後数年、僕に会ふと「アメリカ」何うした、と聞くものであった。 晩年病躯を提げて郷党の輿望を負ふて尾山の村長となり、名村長の誉れ、是れより漸く高からん とするときに簀を易へたるは残念であった。 六、阿部重太郎君 一町一村に於いて、少なくとも一軒位は其の一町一村の人々をして、尊敬し景仰せしめて、旧家 大家と称する家と称する家柄を保有せしめたいと考へて居る。遂に先頃までは各町村に必ず生活において、 躾に於いて、将又気品に於いて……郷党の儀表となられ、尊敬にも価する家柄はあって、其家の所謂 若主人として立派な人物はあったものだが、近来其の旧家は漸次滅び、新に勃興の大家は、濁富を 積むに急にして、貧家より尚ほ穢劣なるあり、高尚典雅の大家の気風未だ出来ないのは普通である。 小学より中学まで或る時代、窓を同うしたる阿部君は、逸事など沢山の所有者ではないが、今日迄 生きて居たならば、鹿角に温雅の長者たる一人物としての存在は、必ずや有隣の徳化を及ぼして居たろうと 惜しまれてならぬ。 七、關達三君 茲に關君を拉し来たれるは、逸事を語らん為めではない。中学卒業後、高等学校病気半途退学の不幸の 境遇を巧なるスタートを切って、順境へのコースを取りたるを物語り、後世に示して青年への教訓とせん が為めである。 花輪に居ながら郡役所に勤め郡属となり、二転して秋田県属、三転内務属、四転して東京市に聘せられ、 某区長候補の噂あるに、不幸夭折せるが、君は実にスタートの切様と、コースの取り様で、専門学校や、 帝大を卒業せずとも、人は相当に立身出世の出来るといふ実例を示した人である。今迄で生存すれば、 助役位は当然であったろうに、惜しみて尚ほ余りある人であった。 犀利たる観察眼を以て六ケ敷数字に、整理を与へるの才能は、蓋し非凡の天才であったのであります。 |