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鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
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△科学者としての片影 私がかつて花輪の町の地下五六尺も掘ったら、砂礫だらけだと書いたら、方々の井戸掘りの時の 例十許りあげられて、事実の上から訂正して下すった。井戸の深さと地層とを述べらるるときの 精密さには、興三さんと二人で相微笑したのであった。 また、錦木から扇田までの間は、峡谷といふべく余りに幅が広すぎるといふ説に対しては、 両地間の距離二十キロメートルに対し、その高さの差が六十メートルもあるから、鹿角盆地が 湖水であったとき、その水が大館盆地に注ぐときの水の速度は非常に大であったにちがひないから、 その浸食力も大であった。もとの湖水の跡をたどってその面積をはかり、そしてその深さから 水量を出して、当時の水力も判る筈だ、と言はれた。 また、東北大学の女理学士の古代紫の色素の研究方法に対して、古代紫の研究は化学的になす べきではない。あれは紫外線の波長の研究でなすべきもので、物理学上の問題だと言はれた。 また人類の始源地に関しては、最初人間の棲んだ地方は気候の於て、そんなに恵まれてゐたとは 考へられない。各人が協同一致して働くことに依って、辛うじて社会を維持してゆく様な自然状態で あったらうと思はれる。人類社会の進化は、労働の生産力を高めんとする各人の間断なき(無意識的な) 努力の結果だ、と独特の見解から、おのづから唯物史観の立場に入って居られた。 その外、花輪城防備の研究(館の学校の裏門の所と櫻山との間の谷は、防備のために掘られた 塹壕であり、福士川も人為的に流路を変更させられてゐるなど)や、奥羽戦争の研究の一端を お伺ひしたが、緻密な調査をせられてゐた。 昨年十月下旬から写真を始められたが、その御研究は又非常に科学的であった。 『自分はどうも物を見るとき、理論的になりすぎて趣がなくなる。写真を始めても、唯芸術的な 趣味の中に没頭できない。』と歎じて居られたこともあった。郷里で休んで居られるときにも、 『私は寝てゐて考へた構図の理論は、何時か纏めて御批評を求めませう。今、明暗配合の研究中です』 (十月十九日御手紙)と言ってよこされた。 私が關様から写真機を求めることを委嘱され、三ケ月もかかって買ったのが、タゴールのF六・三 であった。器械は春になるまで、私に貸して下さることになったが、写真を撮る機会がなく、 二月十三日の御手紙で、奥様から、『お写すなったのを早く拝見したく、せっかく送って下さるのを 待って居ります』との御言葉で、早速写して、お送りしやうとしたので、悲報に接したので、 残念で残念でたまらなかった。 今は關様からいたゞいた沢山の御手紙やお写真(それには關様が私を撮て下すったり、 私が關様を撮ったりしたのもある)や、買ってお目にかけずにしまった写真機を見ては、 憶ひ出の涙をとゞめ得ない。 |