鹿友会誌(抄)
「第十五冊」
 
△過去の人々   東京 川村五峰
 頭には早や霜を頂き、秋風寒く歯は欠け落ちて、腰には梓の弓を張る七八十歳の老人 が、自分達の若かりし昔語を繰返すのは、如何に楽しく愉快なことであらうか。今吾が 鹿友会は、今年で恰も二十五歳の男盛り、固より只冬枯れの蓑境を待つばかりの老人を学 ぶでは無けれども、鹿友会がまだ十一二歳頃の無邪気で腕白であった子供時代の昔語 りを試みるのも、また時に取っての一興であらうと、今自分の頭脳の中に、朧気ながら 刻みつけられて居る印象を、埒もなく書き記して見ることにした。
 
 鹿友会が、この床しき名の下に、表向き東都に於ける唯一の鹿角出身学生団体として、其 の旗揚げをしたのは、明治二十年の事であって、吾々の東京へ飛び出したのは、其れか ら正に五年目の明治二十七年の十一月であるからして、此の五年が間即ち鹿友会の草創 時代の有様は詳かにすることが出来ない、太古のこと貌(之繞+貌)として考ふべから ずと逃げる外は無いことになる、唯この鹿友会の神代巻時代の事に就ては、稗田阿禮が 上代の旧事を暗んじた程では無いとしても、二三聞伝へて居る事るないではない。
 
○故折戸龜太郎先生  花輪出身の方で、若し其の後順当に行かれたならば、今日文部省か内務省辺りで必ず 枢要な地位を占めて居らるべき方、然るに意地悪い運命の手が一度ならず、二度三度ま でも先生の進路に仇をした揚句の果てが、遂に都離れし、北海道にさすらはれた末、誠 に悲惨な終りを遂げられたのは、如何にも嘆かはしい次第である。折戸先生御夫妻は、 吾が鹿友会のためには、実にまたと得られぬ唯一の父母であり、又親切な保姆であった 。同郷の先輩とては殆ど先生より外に無かった当時、腕白盛りの鹿角の書生達は、折戸 先生の御宅を宛然我が家の様に朝夕出入りして随分我侭をしたもので、先生御夫妻もま た、書生好きな方々であられたので、我が子の如く皆の世話を焼かれた、今の石田男爵 を始め、故大里医学士、川村、大里両法学士、内藤博士、川口恒藏氏、石川壽次郎氏、 山本祐七氏、佐藤良太郎氏、田村定四郎氏等、即ち第一期の鹿友会員達は、当時の腕白 連中であったと聞いて居る。私が出京して間も無く、先生は東京を去られたからして、 私が直接御世話になった間は、極めて短日月に過ぎなかったけれども、私は其の時分か ら、以上の如き事実を伝へ聞て、今に至るまで深く先生御夫妻の徳を感謝して居る者で ある。 (此の事実は嘗て石田男爵も陳べられたことである)
 
○私等の知らなかった時代の人の中で、既に故人となった人では、川口恒藏様がある、 山本祐七様がある、川口様は田郡の人で、内藤様と極めて仲が好く、初め國學院に学ば れたが、後には学校などそっち除けにして、専ら古文古典学の研究に耽けられた、今居 られたならば内藤博士と相並んで大学教授位にはなって居られたらう。
 山本様は毛馬内の人、実に本郡最初の高等工業学校出身で、卒業後盛岡に新式の紺屋 さんを開業し、大に働かうと云ふ処まで漕ぎ附けて、不幸病の為に世を夭くされたのは 、実に残念なことであった。
 
 石川伍一様、即ち今の石川少佐の第一の兄様で、日清戦争の当時、海軍編修として秘 密任務に就かれ、遂に清人の手に斃れたので、たしか二十八年の秋頃であったらうか、 その御葬式に私も参列したことを今も尚ほ明に記臆して居る。処が当時石川様の御住宅と云 ふのは、芝区西久保葺手町二十番地で、今の湯瀬様の御住居が即ちそれであったとは、 何と云ふ不思議な因縁であらうか。
 故大里文五郎様もまた、当時鹿角の書生連の頭領株であったのであるが、学士に就て は追悼号紙上諸先輩達の寄書に略々尽してあるから茲には省略する。
 又故石川中佐(壽次郎様)の事は、大概諸君も御承知のことゝ思ふ。
 
○何時かの正月の総会に、故南部利祥伯が、まだ学習院初等科生徒として、今上陛下の 御学友であられた頃、家職の人を御供に鹿友会へ御出でになり、拳をして負けた者は何 か芸をする約束であったが、若様は到頭番に当られたので、其の日海軍少尉として参 会された今の青山中佐の佩剣を帯んで、声高々と「君が代」を歌はれたことがあったさ うだ。
 又鹿友会誌の第一二号辺りに、故南部致堂老公が、親しく御歌を御揮毫して下され、 鶴御紋の御盃に金員を添へて下された事もある。南部伯爵家と吾が鹿友会とは、創立以 来深い因縁を以て居たのである。
 
○明治天皇陛下銀婚式の砌、本会から結婚には極めて因縁の深い錦木の『狭布の細布』 二巻を献上申した処が、予て細布の事は古くから和歌の上にも云ひ囃されて居るので、 畏き辺りに於かせられても痛く御感賞あらせられたと承って居る。それに細布を納めた 桐箱は、今九鉄に居る松本寅次郎君の骨折で、嘗て皇太后陛下の箪笥を造った桐材の残 りを、左る指物師の手から譲受けて拵へたと云ふので、今に床しい語り草となって居る 。
 
○鹿友会の中古時代、即ち吾々が直接知ってからの趣味ある話は、既に『回想記』の中 に荒方書いて了って種切れだが、大里政吉様は、毛馬内最初の赤門出の御医者様であっ たが、卒業間もなく突然死亡された。其の頃、毛馬内は大学に縁が無いのだらうなどゝ笑 った人もあったが、会の為にも残念なことをした。
 安保庄司様、この人は専修学校に居られ、頗る磊落な面白い人で、何時か小金井へ遠足して 雨に降られ、羽織を裏返しに来て『安保さんの李鴻章だ』なんて皆を笑はしたことは、 此の前にも書いたかも知れない。
 木村龜太郎様は、矢張毛馬内の出身で、順天求合社を卒へて、高等工業に入学される 筈であったが、病気の為に中途で帰郷された、安倍守己君と大の仲好しで、而も杜己君 とは正反対に極めておとなしい、云はゞ優サ男の方であった。
 大越英次郎君、花輪の人、同じく順天求合社から高工志願の筈で、当時少年会員中、 稀に見る熱心家であったことは、嘗て小田島徳藏兄も記された通り、また『雨中越ケ谷 桃見強行隊五人男』の一人で、実に気楽なサッパリした人であった。
 
 其れから小田島三郎様、サッパリした処は英次郎様に似て居られた様に思ふ、三十九 年の夏、私が神田の美土代町に居った時分、突然来られ、狭い部屋で砂糖豆を噛りなが らいろいろ話して帰られたが、其れから僅一月経つかたゝぬに亡くなられた。何れも 鹿友会の将来を背負って立って貰ふ可き有為の青年として、望を嘱されたのであるが、 今は皆過去の人となって了はれたのは悲しい事である。
 中津山延徳様、会員としては別に重きをなしたと云ふでは無かったけれども、賑かで 罪のない人、中途で躓づいたのが元で、遂に失意の人として終ったのは今に気の毒に思 ふ。鹿友会は、単に秀才とか苦学生に同情を寄せると同じ様に、失意の人をも捨てず、 寧ろ一層深厚なる同情を以て激励援護する様にしては如何であらうか。
 
 話が少し後戻をするが、此間靖国神社の大祭の時に、ヒマ潰しに遊就館に入りてフト 石川伍一様の油絵肖像を見附けた、それから森内貞次郎様のも見た、森内様は花輪下関 向の人で、日清戦争の時台湾で病死された、櫻田中尉(英吉)の肖像もある、櫻田君は 随分話の種を残して死んだが、其の略伝は嘗て内田守藏兄が記された筈だ、唯櫻田君の 一代記中、特筆すべき一事がある、君はガラにも似合はず佳い声を持って居たことで、 これは大抵の人が知るまいと思ふが、書生時代の櫻田は常に雅楽協会の宮島大人に侍し 、演奏の折などには、先生の代理を勤めて発声をやって居ったものだ、この事は内田兄 も、気附かれ無かったらしいから、茲に補って置く。
 
 毛馬内の故井上伊太郎様、私とは親類筋になって居るけれども、鹿友会に於ける伊 太郎様の事は殆ど知る処が無い、 秋田師範学校出の歩兵大尉で亡くなった、
 弟の井上米次郎様、兄様と同じく秋田師範出身で、長く毛馬内の校長を勤めてから、 東京に出て明治法律学校に学び、到頭二度目の試験で判事になった人である。私は個人 としてならば米次郎様に就て云ふ事がある。それは私を新聞記者にしたのは、此の米次 郎様だと云っても宜いので、何年頃であったか覚えないが、今内務大臣の原敬氏が『大 阪毎日の社長』をして居った時分のひと、或る時米次郎様が私に向って『大阪の原様 の処へ行って、否応なしに頼み込んで使って貰ったら何うだ』と云った事がある。
 
 阿部重太郎君、谷内の人で農科大学の乙科をやった、其の後一年志願で兵隊に行き、 日露戦争の時歩兵少尉として満州に出征して戦死を遂げた、書生時代には随分懇意にも したが、マサカ君が軍人になって死なうとは全く思ひもかけ無いことであった。
 
 今現に居らるゝ先輩方の労はさる事ながら、此の二十有五年の短からぬ年月の間、直接間接に 吾が鹿友会の隆盛に貢献された、以上列記した過去の人々に対し此の機会に当り後進会 員として、謹んで感謝の意を表する次第であります。

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