鹿友会誌(抄)
「第十五冊」
 
△鹿友会例会沿革誌
…… 会誌を通して見たる……
 鹿友会誌第一号に大里医学士の述べられた所を見ても、其の前から鹿角会と称して同 郷の人達がをりをり便宜の場所に小集を催されて居た様であったけれども、鹿友会の第 一例会として会誌に記載されたは、実に明治廿年十一月十三日の左の記事を以て最初と する。
 
 明治廿年十一月十三日午後一時より神田今川小路玉川亭に於て第一例会を開く、会す るもの正員九名、会則中、左の通り修正追加の件を議決せり。
 議 第三条 会員を正員及名誉員に分つ
 修 第三条 会員を分て正員賛成員及び名誉会員となす
 第五条の次に左の一ケ上を加ふ
  第六条 賛成員は本会の主旨を翼賛し、会の隆盛を計るに尽力するものとす
 次に左の談話ありたり
  鉱業一斑並に日本の工業 石田八彌君
  食物消化の道行き 大里文五郎君
  戦法の沿革 青山芳得君
  食物の話 本田伊三次
 右終りて散会す、時に午後五時
 越て廿一年には一月(総会)、三月、六月、十月の四回開かれ、会場は全て神田の玉 川亭で、幹事は大里文五郎、内田清太郎、石田八彌の三君であった。  
 二十二年の総会は一月丗日上野韻松亭に於て開かれ、会するもの廿二名、一同撮影を 試み(巻頭に掲載のもの)大里幹事は、前年度の報告をなして『今日の総会を以て、昨 年の第一総会に比するに、本会の創立日浅しと雖、会運の益隆盛に赴くを知る可く留学 生如き殆ど前数に倍するに至りしは、本会の効與で力ありと信ずるに足る、而して本会 の趣旨を協賛し寄附金の申込 予望外の高額に達したるが如き、亦以て本会の隆盛と信用 の浅からざるを見る可し』と、幹事は大里文五郎、内藤虎次郎、本田伊三次の三君当選 す、此の年の例会は、何ふ云ふ都合であったか、前後三回しか開かれて居ない。
 
 廿三年の総会は、下谷黒門町珈琲茶店に於て開かれ、幹事は本田氏の代りに川口恒藏 氏がその職に就かれた。此の期間に特筆す可きは、五月十六日神田の金清樓に開かれた る第九例会で、常時東京に開催中の内国勧業博覧会見物に上京せる郷人を招待し、来会 者三十二名の多きに達した事である。
 
 廿四年の総会は一月四日、神田区連雀町の金清樓に於て開催され、幹事は川口恒藏、 山本祐七、内藤虎次郎の三君当選された。越て二月一日例会を同じく金清樓に開き、非 地価修正問題の為に上京中の賛成員大里壽、勝又平太郎、大里巳代治、吉田清兵衛、諏 訪音治の諸氏出席し、来会者三十四名の大盛会であった。此の年より七八の両月を除い た外、毎月例会が開かるゝことゝなり、集会の都度々々会員の熱力なる会勢発展策と、 各自振て学術上の講話があった。試に此の期間に例会席上に於ける講話者を挙ぐれば、 青山守太、石川壽次郎、目時金吾、川村竹治、北村大次郎、内藤虎次郎、川口恒藏、 山本祐七、湯瀬禮太郎、石田八彌、小笠原勇太郎、折戸龜太郎の諸氏である。従て例会 出席者も又多く拾二名を最少数とし、多い時は三十七名に及で居る。尚此の年の八月に 毛馬内柳澤清助氏の宅に於て開かれたのが、最初の夏季大会であった。
 
 廿五年の総会は一月拾日、上野の氷月亭に開かれ、幹事は内藤虎次郎、川口恒藏、湯 瀬禮太郎の三君に改まった。此の期間の例会場は韻松亭、氷月亭、九段の久華園が用ひ られて居る。
 
 廿六年の総会は一月七日、神田の金清樓に開かれ、旧藩主殿利祥伯臨席され、来会 者三十三名の盛会であった。幹事は内藤、川口、大里の三君が当撰された。夏季大会は 八月三日、花輪町大里壽氏方に開かれ会者弐拾四名、例会の会場は多く九段の遠州屋、 久華園、又は南神保町川村竹治氏方であった。
 
 廿七年の総会は、都合により四月一日まで延び、上野見晴亭に開かれ、内藤、大里、 川村の三君が幹事に就任された。之より先に三月九日、番町折戸龜太郎氏の宅で第四十 例会を開き、大婚二十五年の祝典に対し「狭布の細布」一匹を献上して祝意を表するこ とゝし、皇室の万歳を祝して盃を挙げた。又十二月二日の第四十七例会は川口恒藏君の 追悼会を兼ね、小石川表町の雅楽協会に於て開会、会員中の有志が数番の舞楽を奏し、 故人の霊を慰むるなど特色ある追悼会であった。
 
 廿八年の総会は一月六日、上野三宜亭に開かれ、日清戦争の祝捷会を兼て、豚肉を煮、 美酒を傾け、頗る元気のいゝ総会であった。幹事は前年度の三君が再撰された。
 此の期間、例会拾回、其の中二月と四月と拾月は遠足会であった。十二月二十五日は 特に臨時会として日清戦争の殉難者を祭り、石川伍一、森内貞次郎、大越保太郎三君の 肖像の前に、会員交る交る慷慨淋漓たる祭文詩歌を朗読した。
 
 廿九年の総会は一月五日、龍岡町の豐國に開会、会者廿八名、幹事は内藤、大里の二 君に安保庄司君が新に其の任に就かるゝことゝなった。西片町御連中より福引の寄附が あって大に振った。例会は二月と四月と十一月は例によって遠足会であった。其の外の 時は西片町の川村氏の宅と見晴亭が用ひられた。
 
 三拾年の総会は一月五日、神田明神内開花樓に開かれ、創立十週年の記念会と、内田 清太郎君の洋行より帰朝祝宴を兼ねて、なかなか盛大なるものであった、会者三十名。
 此の歳の幹事は大里、川村、内藤の三君、例会数は九回、其の外に三月十三日夜、上 野の三宜亭に開かれた臨時会は内田清太郎、内藤虎次郎、石井哲五郎の三君が台湾に渡 航されることになったので、其の壮行会であった。
 
 丗一年の総会は、英照皇太后御喪中の為め二月に延び、神田三河屋に開会、出席者三 十五名、幹事に前年度の三君重任。
 例会数は八回、中三回は遠足会で、小金井鴻の台方面に行楽を試みた。夏季大会は山 本祐七君の追悼会を兼ね、毛馬内安保庄司氏の宅にて開会、会者三十名。
 
 丗二年の総会は本郷眞砂亭、会者三十一人、例会は総て見晴亭であった。幹事は前年 度の三君。
 
 丗三年の総会場は神田一ツ橋外帝国教育会、出席者は前年と同数の三十一人、幹事は 左の三君が当撰された。
 佐藤良太郎、大里武八郎、大里政吉。
 夏季大会は花輪佐藤良太郎氏方に於て開かれ、会者二十三名。十一月の例会は、珍ら しく舟遊会をやった。
 
 丗四年の総会は、川村氏が多度津郵便局長に栄転されたる祝宴を兼ね、一月二日同氏 宅に於て開催、会者二十六名、幹事は前年の三君であった。此の年四月の例会は、丁度 第百例会に相当するので、午前八時上野に集合、飛鳥山に赴て運動会を催し、本郷眞砂 亭にて晩餐を喫し、鹿友会の万歳を三呼して散会した。
 
 丗五年の総会は、牛込柳町中村樓に開会、出席者廿三人、幹事は大里武八郎君の代り に川村十二郎君が就任した。夏季大会は花輪佐藤良太郎氏方に開かれ、会者三十名。十 一月二日見晴亭に開かれたる第百十六例会に於て、之れ迄拾銭の例会費を弐拾銭とする の議が起り、異議なく可決された。
 
 丗六年の総会は一月十日、駿河台の寶亭に開かれ、会者三十一名、幹事は佐藤、大里 (武)の二君に内田守藏君が新に入って、其の任に就くことゝなった。此の歳は例会数 八回の中、五回迄遠足会であった。殊に十一月三日武州高尾山の観楓会の如きは、会と して空前の大遠足会であった。夏季大会は小坂鉱山倶楽部に於て三十九名、之れも空前 の盛会であった。
 
 丗七年の総会々場は本郷彌生亭、会者十七名、幹事前年度の三君。夏季大会は大湯村 谷地文哉氏方に開かれ、出席者二十七名。例会は多く丸山福由町の大里氏の宅を煩はし た。
 丗八年の総会はヤッパリ彌生亭で開かれ出席者二十四名、大里武八郎、大里政吉、小 田島省三の三氏が幹事に当撰した。十一月三日の第百四十五例会を特に石川、青山両氏 の凱旋歓迎会として彌生亭に於て開会、青山氏の実戦談あり、会するもの三十名。
 
 丗九年の総会もヤッパリ彌生亭に開会、集員二十七名、内藤、大里両氏の満洲より帰 朝歓迎会をも兼ねたのであった。幹事は内田、大里二氏に小笠原敬三君が新に選出され た。
 二月十四日川村氏万国郵便会議に参列の為め渡欧送別会を臨時会として、彌生亭に催 した。出席者三十八名。三月四日は故南部利祥伯の一週忌に相当するを以て、会員一同 護国寺に参拝し後、例会を開いた。夏季大会は毛馬内豐口竹五郎氏の別宅に開かれ、頗 る盛会であった。
 
 四十年の総会も彌生亭であった。会者二十八名、内田、諏訪、川村(十)の三君が幹 事に当選された。六月十五日川村氏の帰朝歓迎会が神田の玉川亭に開かれた。夏季大会 は尾去沢の阿部守巳氏の宅を煩し、夜更くるまで歓を尽した。
 
 四十一年の総会は一月廿六日、大里武八郎氏方に開会、氏の結婚披露会をも兼ねたの で、来会者四十一名と云ふレコード破りの盛会であった。幹事は小田島信一郎、青山芳 得、中島織之助三君が新に就任さるゝことゝなった。五月三日第百六十三例会を兼て、 川村氏の内務省秘書官に栄転されたを祝し、目黒サッポロビールの庭園に於て園遊会を 催した。夏季大会は再び小阪吉本倶楽部に於て催され、会者三十名。
 
 四十二年の総会も彌生亭にて催され、来会者十五名、蓋し人数に於ては尤も少数なる 総会であったけれども、会則改正の議論はなかなか盛であった。其の結果第五条、毎月 一回例会を開くとあるを「春夏秋冬各季一回以上例会を開く」と改められ、鹿友会例会 史に一紀元を劃することゝなった。幹事は中島、小田島二君に川村氏が加ることになっ た。二月二十一日高輪の川村氏の宅に於て、青山中佐の吾妻副長に栄転された送別会を 開き、第百六十七例会を兼ねた。出席者二十六名。夏季大会は大湯に於て開かれ、会者 弐拾名。十月三十一日百七十例会兼川村、大里渡台壮行会を麹町清水谷の皆香園に開き、 記念の為め一同撮影した。会者二十一名。
 
 四十三年の総会も彌生亭で、来会者は前年と同じく十五名に過ぎなかった。而も先輩 は一も出席なく、若い連中ばかりだったのに少し物足りなかった。幹事は小田島、諏訪、 川村(十)の三君が当選した。例会は四回開かれたが、其の中、特筆す可きは十月九日、 内田新学士の弘前に赴任するのと、川村氏の台湾から帰られたのを、送り且つ迎ふる為 めに、神田玉川亭で開かれた百七十四例会で、弐十一名の参会者があった。
 
 四十四年の総会は一月廿二日、湯島天神の魚十樓に於て開会、出席者二十四名、幾分 か前年来の不景気を取り返した有様であった。幹事は小田島信一郎、立山林平、湯瀬禮 太郎三君が当選された。二月には折から上京中の豐口、内田両県会議員の歓迎会を、四 月には佐々木彦太郎君の留学送別会を、九月には川村氏の和歌山県知事に栄転されたる 祝賀会を、何れも見晴亭で開いた。
 
 四十五年の総会は、本郷の豐園にて開会、会者十九名、幹事は前年度の三君再選され た。越えて六月九日上野見晴亭に於て、創立第廿五週年記念会を挙行して、光栄ある歴 史を讃ひ、希望に輝く前程を望みながら、明治年間の鹿友会は茲に終結を告げたのであ った。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]