鹿友会誌(抄)
「第十四冊追悼録」
 
△大里先生の面影(続き)
 当町児童のトラホーム撲滅の為めに
 
  巨額の負債まで作られて多年施療に従事された
 
かどを以て、政府から銀盃を下賜された事は御承知の通りです。
 それから町の為めと云へば、消防の様な事にまで、周到な注意を払はれ、消火器を購 入して寄附されたのも先生なれば、消防に一定の帽子をかぶせる様になったのも先生の 主張と聞きました。又屋根に水瓶を上げる事も先生の大に奨励された所で、之れに付い て何時か瓶を下して呉れと、屋根屋さんに使を立てられた所が、向ふが料理人丈けにス ッポンを下すのだと心得、大飲込で包丁など磨き済しやって来ると、夫れは屋根の水瓶の 事であったので大笑をしたと云ふ話が残って居ります。
 之れは「軍人団に対する先生」として別に述べて置きましたが、当地から徴兵に出る壮丁の 為めにも非常に骨を折られたもので、入営前身体に故障があれば施療をせられ、何んで も当地から立派な兵士を出そうと頻りに苦心せられました。私共は去る四十一年の頃よ り入営者の為に一月許り前から、特に夜学を開いて、いろいろ入営後の必要科目を学ば せて居りますが、最後の教訓は必ず先生にお願ひするのが例で、先生は又如何なる事情 があっても繰合して必ず出席され、一場の訓誨を述べられました。其の要は
 
  諸君が何か事に当る時はキット花輪町と云ふことを思出して呉れ
 
必ず花輪と云ふ事を念頭から離して、故郷の不名誉になる様な事をして呉れるな、と懇 々繰返さるゝのでありました。之れを見ても如何に郷里を重んじ、又愛されたかと云ふ 事が分ります。
 お葬式の際、町を挙げて参列し、会葬者の数二千余人と註せられ、又ありとあらゆる 諸団体悉く吊詞を献けた其の数弐十に余り、実に空前の盛観を呈しましたのも、先生が 平素町を愛され、町の為めに尽された反響でなくて何んでありませう。
 それから先生の内的方面、人格と云ふ様なことに就いて聊か述べましせう、先生は、 実に人情の厚い方でありました、奥様の弟様を長い間引取って死なれるまで懇切に看病 された事もなかなか常人には及び難いことでありますし、昨年柏田氏が病まれた時も三 日間も寝ずに、必死となって看護に手を尽され、師弟の情の厚いには皆が感服して仕舞 ました、或る時兼々先生の元に出入りして愛顧を蒙った一巡査が突然他に転任すること となり、暇乞に出ると、生憎お留守だったので、止むを得ず其の侭出発して仕舞ました 、間もなく先生が帰って此のことを聞かれ、夫れは残念なことをしたと、直ぐ車を命じ てあとを追っかけ、松の木で追ひ付いて、別盃を酌まれたそうですが、其の巡査も
 
  先生の情誼の飽迄厚きにヒドク感激し果は声を揚げて泣き出した
 
ので、先生も大に弱はられたと申すことで御座います。
 先生は毎月三十日は父君の命日とて、如何なる風雨の日でも如何なる用件があっても 繰合して長福寺に参詣され、墓石の座を払ったり、墓地の草をむしったりして、低(行 人偏の低)徊(タチモトホル)去るに忍びずといふ風で、一時間余りも費さるゝが常で 、数年間一度も欠かされた事のないのを長福寺の和尚様が大分感服して、何かの折に各 住職連に話したので、そんな仁こそ会長に戴く可きであると衆議一決して、お門違の仏 教会長に推薦されたのだと聞きました。此の話なぞは先生の性格の一面を窺ふに誠に適 当で、如何にも味の深い逸話だと思はれます。
 それから名利の念に薄かった事は、前に述べました小阪の院長を辞し、薬価未納簿を 焼かれたのでも分りますし、平素
 
  医者と云ふものは金をためられる訳のものではない
 
余裕があったら宜敷医療の方に赴く可きものであるとよく申されました。
 次に趣味が大変広い方で、老少男女如何なる種類の人とでも、面白そうに話して居 られました。先生の書斎に行くと、医書の外に、国史大系とか故事類苑とか大部の歴史 の本がギッシリ詰まってあるに驚きます。心霊上の方面にも深い注意を払はれて、先年 恩徳寺に於て、石川素童禅師の授戒があった際にも真先に加入し、最も謹厳なる体度を 以て仏教会長たる職分を果たされたので、禅師も深く喜悦されたと見えて、今回死去の お知らせを上げると直ぐに、大里文五郎居士の死を悼む云々の丁重な直筆の吊詞を寄せ られました
 
  俗人にして本山の禅師より吊詞を貰ったは当地では先生を以て嚆矢とす
 
るそうです。
 又非常な平民的な方で、使はれて居る人達をも必ず呼び捨てにはされませんでした。 それから礼儀はよくたゞされて、平素お家内同様に入り浸って居る我々にまで、一通り の礼儀は略されることなく、チャンと応対されるには、毎々恐縮致しました。
 芸者と云ふ様な者に対しても、一概に賎まるゝことはなく、彼らも演芸中は一個の芸 術家なりと云はれて、チャンと膝に手を置いて見て居られたそうで御座います。総て柔 和な中にこんな生悵面な馴るべからざる所がありましたは慥に先生の一特色でありませ う、
 先生は交際はなかなか派手にやられたに係らず、身なりは非常に質素にされて、始終 筒袖で過されました、何時か森知事が来訪された時も、疎末な筒袖で門の所で草をむし って居たので、知事も主人とし気付かず、初は処世の積りで挨拶をした所が、段々夫れと 分って、後で大笑をしたことがあるそうで御座います。
 先生は非常な朝起の方で、前夜如何に
 
  夜更かしされても翌朝の四時頃にはもうチャンと起きて
 
庭を掃いて居られました。
 酒は随分飲まれたが、つい酔ふて正体を失ふと云ふことはなく、只一度月報会の凱旋 軍人歓迎会の時、料理屋で一睡され、未だ日が暮れたばかりだったのを大変遅いと思は れて、家に帰らるゝや否や、手づから門を閉められたので、大笑になったと云ふ話があ る位のもので、先づ前後忘却されると云ふことはありませんでした。
 未だいろんな事がありますけれども、あまり長くなりますから、此の位に止めて置き ます。私の杜撰な記述も先生の面影を後世に伝へる一助となりますれば実に望外の仕合 です。

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