鹿友会誌(抄) 「第十四冊追悼録」 |
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△大里先生の面影 花輪 吉田慶太郎 私は、極く小さな時から先生の御引立を得まして、殆んど毎日と云ふ程堰向の御宅に 参り、御家族同様の御愛顧を蒙りました。それが突然今回の御不幸に遇ひまして、全く 盲目が杖を失った様な気が致したので御座います。今出来得る丈け、平素伺ったお話や、 頭に残って居る印象と云ふ様なものを総合して、先生の面影を忍ぶと致しますと、先生 は幼より極く怜悧なお方で、 五歳の時百人一首を暗記して 内の人方を驚かしたと申します。そこで阿父さんも大変心を注いで、当地で出来る丈の 教育は施され、尚秋田の中学校より東京の大学に笈を負はせるゝ事となりました。之が 今では何んでもない事ですけれども、何にしろ明治十二三年頃の交通不便の時代と云ひ 、東京に遊学する人は、鹿角から何人と云ふ時ですから、余程の御奮発だったに相違あ りません、先生も阿父さんの思召に背かぬ様に、大変勉強されたそうで、 大学予備門に這入らるゝ時は首席で 入学し、這入られてからも成績優等にかどで一年飛び越されたこともあるそうです。二 十三年に目出度く大学を卒業し、幾分でも早く郷里の為めになる様にとの、阿父さんの 御希望から直ぐ当地に帰って開業さるゝ事となりました、一体医者として先生は、何の 位の技倆があられたか、私等門外漢では一向分りませんが、病人が、他の先生達でむづ かしくなると、皆先生の処に担ぎ込んで来たのを見ても陰然 当地刀圭界の牛耳を採られた 事が分ります。其の医者としての態度、覚悟と云ふ点に至っては実に立派なものであら れたと思ひます。先生は、患者に対して無愛想だ、容体を聞いてもよく知らせない、と 云ふ非難はよく聞きましたが、之れも立派に主義から割出された事で、素人に容体を聞 かせても迷ふばかりで、益がない、一体医者が病人に媚びる、と云ふ事はよくないと云は れて、評判などには頓着なく、何時も厳格な態度で患者に接せられました、診察室は非 常に神聖視せられて、如何に他愛なく談笑して居られても、一度診察室に入ると、丸で 別人の様になられました、茲に於てか芸者をなぐるなどゝ云ふ奇談が生じたので御座い ます。蔭薬などゝ云ふ事は如何に別懇な人にでも恐らくやられた事がないでしょう、常 に医は仁術なり、決して人によって、又報酬等によって、手当に厚薄の差違があっては ならぬ。と仰言って 生涯一度も薬価の収入簿を窺かれたことがなかった そうです。それは薬価の未納者などが自分に分って居ると、人情として知らず知らず 患者の取扱に不親切な所が出来ては困る、と云ふ理由からで、現に去る三十五年の歳 に、其の前の薬価未納簿を一切焼き捨てゝ仕舞はれました、しかし夫れから今日まで未 納額が尚数千円に上って居ると云ふ事ですが、先生は財政如何に窮迫の時でも、つい一 度も催促がましい事をされませんでした。此の辺は実に恐れ入ったものだと思ひます。 医者としての先生は此の位に止めて、社会の人として先生を見ますと実によく公共の 為めに尽されました。夫れが医者として衛生の事に尽されたのみでなく 社会の為になる事なら何んでもやる と仰しっっていろいろの方面に努力されました。昨年押されて県会議員の候補者に立た れたのも此の主義に外ならぬ事と思ひます。之れに付ては当時いろいろ非難する人もあ りましたけれど、先生の志は全く社会の為めに一個人として出来る丈けの事はされる積 りだので、無論一人の病を治する技倆を転じて、国家の病を治さうと云ふ抱負があられ た事と思はれます。亡くなられる二三日前、私が御見舞いに伺ふと「敷島の大和心」と 云ふ本居氏の歌を紙にかいて示され、日本人は之れでなくてはいけぬと懇々お話があり ました。所が計らず此の書かれたものが絶筆となり、此のお話が最後の御教訓となった 次第ですが、之れを見ても如何に国家社会と云ふ事を念願に置かれたかゞ分ります。 昨年軍隊が当地に来ました時、小学校で聯隊長の軍旗に関する講話がありました。其 の際押しかけた聴衆が別室に飾ってあった軍旗を見ようと一度に押し寄せかけたので、 衛兵の制止も聴かず、あはや軍旗の尊厳が毀損しようとした時、先生は 厳然として入口に立ち塞がりステッキを振って 大声叱呼、『軍旗に失礼してはいかんぞ』と群集を叱り付けられました。平素柔和な先 生も、此の時ばかりは恐ろしい権幕でした。先生は実際こんな事にかけては、非常に真 面目な方でありました。 先生は又一生郷里の為めに尽された阿父さんの感化もありませうが、郷里を愛さるゝ事 非常なもので、嘗て小坂から幣を厚くして病院長に招かれた時、御一身上から打算す ると其の方に赴かるゝ事が余程の利益だったに係らず、何うしても郷里を去る事を肯ぜら れませんでした程で、苟も花輪の為めになる事とし云はゞ何事をも辞されませんでした 、現に町会議員の職に居られ、町に何事かの事件問題が起ると、必ず其の指導者と して又解決者として、或は中心人物として活動されました。 |