鹿友会誌(抄)
「第十四冊追悼録」
 
△大里医学士の見識   東京 月居忠悌
一、杉浦重剛先生の対医学士観
 先頃杉浦先生を訪ねた時、談偶々故人に及び、其の逝去せられたることゝ、晩年に於 いて故人が政治的色彩を帯び来りしことゝをお話せるに、先生曰く『未だ若い筈だが、 悼ましい事をした云々』又晩年に於ける政治的色彩を帯び来りし事につきては『止せば 好かった』と云はれた。先生のお言葉は無限の味ひがあるのでは無かろうか。杉浦先生 の其昔大学予備門校長時代、故医学士は其の学生であったさうである。
 
二、余が医学士観
 男性にして縮緬の羽織を着て洒落て居ても人も怪まず、自分も平気で居るものは、医 者と相撲取其他の芸人連のみだ。昔は坊主、山伏、医者、乞ジキ(コツジキ)と云ふた 。此言医者の縮緬羽織の由来を説明する材料でなかろうか、昔の医者は頗る幇間的で、 人に阿り世に迎合する、一種の人気商売然たる所に於いて、相撲取其他芸人者流の縮緬 羽織連たる必要ありしに相違なし。之が因襲的に今も尚ほ医者の縮緬羽織を見る所以で あろうか。而かも羽織を着る位の事はまだ可なり。当世尚ほ自家の暖簾を大切にするの 情より、博士、学士の大先生連にして所謂余は国手なり余は仁術を主とするものなり と、理想のみは高きも、富豪のお抱へ医者を以て随喜の涙を流し居る者もあるとか聞く、 昨今の刀圭界頗る気魄に乏しと曰はざるを得ない。
 
三、医学士と谷内の豪傑阿部重吉君
 某年某月某日、故医学士や阿部重吉訓など、いわゆる鹿角の田紳等岩手屋に飲む。 酒酣にして重吉君頗る慇懃に医学士に盃を献じて且つ曰く『我村にも以後御来診を頼む 云々』と、流石温厚篤実の学士もお神酒が少し過ぎてあったと見えて、『君の村の病人 を診る位は、馬医者で沢山だ』とやった、阿部の豪傑何んぞ苦笑して止むものならんや 、猛虎の興るが如く、憤然としていわく、『何んだって、此薮医者野郎……』と、アハや 鉄拳飛ばんとす、座に列する者、仲裁して止むと云ふ。
 縮緬羽織の幇間的医者には到底云へない事だ、学士遂に一生涯、土蔵と田畑との増殖 せざりしは、こんな風だからだったろう。
 
四、医学士金力に頭を屈せず
 某年某月某日、花輪の金傑阿部百助翁の愛孫危篤也、来診を乞ふの使者傘蓋相望む、 学士、時恰も樽子と相対す、酒仙何んぞ容易に動くものならんや。所謂天子呼び来 たれども船に上らずの格で居たのだ。愛孫遂に死す、翁、烈火の如く怒りて、堰向の大 里医院に赴き、早速立退を迫る、人あり、仲裁して乃ち平ぐ。之れを縮緬羽織的見地よ り見れば、富豪而かも家主の病人なればとて、敢て他の患者と異ならず、金力の下に低 頭平身せざる所に学士の見識を見る。

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