鹿友会誌(抄)
「第十四冊追悼録」
 
△仏教会長としての大里文五郎先生   長年寺住職 川村眞明
 幹事さんから『花輪仏教会長としての大里文五郎先生を、本紙上に紹介したならば堂か 』との仰せがありました故、一寸申上ぐることに致しました。
 
 先生の会長就任は、四十三年の一月より翌年十二月、即ち亡くならるゝまで満二ケ年 であります。其間先生は会長としての任務は、十分尽されてあります。
 
 一昨年六月、花輪恩徳寺に於て、曹洞宗大本山総持寺貫首石川素童、勅特賜大圓玄致 禅師猊下の授戒会がありました。其際、先生は多忙なる職務を持ておらるゝにも拘らず 、率先して仏戒を受けられ、七日の間、寸暇あれば病家を訪はれ、患者を見られました が、毎朝三時か四時から恩徳寺戒場に詰め、晩九時か十時まで居られました。そうして 三世諸仏の礼拝、読経法筵の参列、説教講話の聴聞、斎堂三時の食事等は、始めより終 りまで一度も欠かれたことは無い。真に敬服の次第でありました。なかなか多忙なる職 務に在り、種々の公共事業に関係を有するの人にして、一週間詰め切りの受戒勤行は、 容易なことでは無い、けれども、仏教会長としての先生は、成るべく時間と用務とを 繰り合せ、始終、戒場に詰められました。
 
 此勤行は啻に教法を尊信せられたと言ふの みで無い、即ち仏教会長の任務として、受戒者の標目を人に示されたのである。法要説 教が始まれば、先生先づ威容を正して法筵に列す、故に衆多之に倣ふ。三時の食事のと きには、先生第一に飯台に座し、恬然として疏食菜羹を喫せられた。故に戒弟斎食のソ (鹿冠+鹿+鹿)細を説く者は無かった。是れ即ち仏法の尊信すべきものたることをば 、身を以て之を示し、受戒勤行の者、飲食居住共に謹慎すべきことをば、意を以て之を 教へられたのである。其他法要執行の秩序、戒弟繰縦の方法等に至るまで、大に心を配 られた、宜哉
 恩徳寺戒会は、静粛、厳正、壮麗、能く行き届き、秋田県中の模範的戒会であると、 衆人に称讃せられましたが、其成功には先生身意の説法と尽力とが与って大に力あった のであります。加之、大禅師猊下の迎送として親しく小坂まで運ばれ、一週間朝夕の伺 候等、凡て遺憾無かりしを以て、猊下深く其精進を称し、爾後音問交際あらせられた、 亡くなられた時、猊下切に永逝を痛み、鄭重なる弔詞を贈られました。
 
 先生は、常に世の公共事業には一身を挙げて之に従はむと言て居られましたが、或時 、其行ひが仏教の道理と自然一致したことを大に喜ばれたことがある、
 □は、御承知の如く、仏とは、印度の原語にて、(Buddha)「ブッダァー」、漢字 にて仏陀と書し、覚者と翻訳す、覚者の意味は、自覚覚他覚行円満、即ち自利他利円満 と言ふことである、(覚とはサトルと訓すれども、其意味は道理の如く領解して之を身 に行ふ義なり)自覚してばかりでは仏ではない、自覚他覚則ち自利他利他の正行円満具 足して始めて仏=覚者であるといふことを、仏教会に於て拙者が講演したことがある。
 先生その時、
 予が従事する医業は勿論、世間公共の事業に尽力しつゝある予の行為は、即ち利他行 なり、自利の経営は何人も之を為す、予や自利と利他とを兼ね行ふに於て、仏教の道理 に一致す、実に愉快である。爾後益々仏の慈悲を体して業務に従はむ
と、言はれました。
 
 先生は、常に珠数を離されたことは無い。外からはそれと見えねど何れへ往くにも、必 ず身内に携へられた、或る時地方庁の高等官が来花し、饗応の宴を某所に開かれ、先生 亦た之に列席せられた、宴酣にして、談偶々宗教的信仰のことに及ぶ、座中或は何宗を 信仰すると言ひ、或は仏戒を相続せりと言ふありて、言鉾衝天の気ありたり、先生莞爾 として臂の袖を払へば、燦(王偏の燦)然として明星の如き白玉の珠数一聯、右腕を巻 けり。且つ語て曰く、『信心は間断あるべからず、熱し易く、さめ易き薬鑵的信仰は不可なり』
と、一座、先生が不断の信念を讃歎せりと聞く。
 
 以上は就任中に於ける二三の逸事であるが、以て会長としての先生が風容を知られた いのであります。先生寡言沈黙、苟くも仏説を喃々せらるゝが如きこと無かりしも、 心頭正に仏心を印し、行操に其実を表はす、好個の仏教会長でありました。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]