鹿友会誌(抄)
「第十四冊追悼録」
 
△医師としての恩師   花輪 柏田愛次郎
 恩師大里先生は、明治廿三年に医科大学を出られ、花輪町に開業せられてから、廿余 年の間、始終一日の如く郡党の為めに尽されましたので、其の功績は一寸述べ切れんの で御座いますが、思出すまゝにお話致しますと、先生は平素名利共に眼中になかった方 で、貴賎貧富皆同様に取り扱はれました。患者に対する態度の如き、全く模範的であり ました。技術の方では産科が殊に抜ん出て居られて、再生の恩人として仰いで居る人達 も多かったので御座います。
 
 それから公共的の方面としては、明治廿六年に鹿角郡医師会が創立せられた以来、先生 は始終其会長として不断の努力を致されました。同会が日露戦争の当時其事業として、 従軍者の家族に施療して角によって銀盃を下賜せられた等は、実に会長たる先生の効が 預って力ある事と存じます。昨年総会の席上で、多年会長として功績ある先生に紀念品 を贈呈する事が議決せられまして、夫々準備中突然死去せられたのは、残念で御座いま す。
 県医師会へは代表者として毎会参列せられまして、現に県医師会評議員の要 職に居られました。去る卅四年で御座いました。当郡で始めて看護婦養成所を設置せら れました時などは、先生は卒先其教授を担任せられ、診療所の一部を教室に借し与へら れまして、実地看護法などは外来の患者を利用して御教示なされたので、其為か一時患 者がへった様な事も御座いましたが、先生は一向頓着なく立派に十六名の卒業を御出し なされました。其の時からもう十年にもなりますが、先生の病篤しと聞いて、里余の夜 道を犯して、看護にと病床に馳参じた老看護婦が御座いました。
 
 先生は花輪町の学校医として学校衛生、殊にトラホームについて、是が撲滅に非常な 注意を払はれまして、卅八年以降四年間に同病患者に施療せられた総数は、実に十二万 六千四百余人の多きに到りました。先年此事上聞に達し、賞勲局より金盃一個を下賜せ られました、実に名誉の事と存じて居ります。
 卅四年の夏、当町に赤痢病の流行した時 などは、先生は夜の目もねずに、治療、予防消毒等に尽力せられました。其時迄流行病 の恐しさを知らなかった土地だけに、予防消毒などは随分困難を来たしましたが、先生 は東奔西走、病毒の恐るべきを説き廻り、其励行を促せられましたので、さしも猖獗を 極めた同病も十一月には全く其の跡を絶ちました。
 先生の事績に就ては、まだいろいろ の事が御座いましたけれども、何分匆卒の間の事とて、単に其の一端を述ぶるに止めま した。

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