鹿友会誌(抄) 「第十四冊追悼録」 |
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△故大里文五郎君を憶ふ 和歌山県知事 川村竹治 …… 帝大時代の大里君と余 …… 本年一月三日、一通の黒縁の葉書が到達した。是は余が先輩にして、且つ恩人なる大 里医学士の訃音である。郵便局の消印を見るに「十二月廿九日花輪」とあり、此葉書の 斯く延着したのは、多分年末年始の際、郵便物の幅湊のためなるべしと思はる。大里君 の病気にかかって居られた事を一向知らなかった余は、此不意の訃音に接して且つ驚き 且つ悲んだ。あんなに立派なる体格の君が不帰の客となられたとは、夢の様で驚かざる を得ない。又あの様に人格の高く慈悲心に富める国士を我郷里に失ふた事は、誠に残念 で悼みても尚余りあるのみならず、山川万里をへだて、走りて君の最後の温容を拝する ことの叶はざりしは、実に遺憾千万である。 余の君を知りしは、東京に於てである。去る明治二十一年、余が笈を負ふて出京する や、当時君は医科大学に在学中で、本郷の「加藤」に下宿されて居った。郷里の学生は 多く又此下宿屋にあり、君を中心として鹿友会々員の大半を此処に集めて居た。其当時 の鹿友会は、実に振ったもので、会員は皆大里君を会の長老として尊敬し、君も亦会員 を自分の子弟の如くに愛撫し、鹿友会は他に比類なき親密なる団結であった。 明治二十二年に余は謬りて第一高等中学校の入学試験に及第した。大里君は此事を聞 て大に喜ばれ『出来る丈の援助を与ふるから、是非入学して一奮発をやれ』と云ふこと で、遂々高中に入学する事となり、爾来大学を卒へ官途に就き、今日に至った訳で、余 の今日あるは同君に負ふ所、甚だ大なるものがある。 君の大学にあるや、勤勉であって亦運動をもよくし、殊に漕艇術に長じ、医科大学生 中のチャンピオンであつて、随って体格も丈夫で病気などは更にない様に思はれた。然 るに卒業後、郷里にて開業せらるるや、過度に飲食せらるるとの風説を聞き、余は窃に 心配して居たので、時もあらば君に忠言致度考へ居りしも、遂に機会を得なんだ。 先年、余は長崎にある時、九州を漫遊せられ、久振りで面会し快談した事がある。其 折余は、近き将来に、是非一度外国に赴き、欧米の医界を視察せられ、我国の済世事 業に一層の貢献をされては如何と勧めしに、余も亦其の意なきにしもあらずとの事なり しが、今は遂に其望も空しくなりぬ、傷ましきの極みである。唯君の令弟周三君は、此 程大坂高等医学校を卒業して郷里に帰られたそうであるが、同君は必ずや令兄の志を継 いで郷里の公益を謀らるゝ事と信ずる。聊か往時を追懐して亡き大里君の遺徳を慕ふと 共に、大里家の今後益繁栄ならん事を祈る次第である。 |