鹿友会誌(抄) 「第十四冊追悼録」 |
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△竹馬の友大里文五郎君 男爵 石田八彌 …… 幼なかりし昔の思出=鹿友会の成立 …… 大里文五郎君の訃音余りに突然なりし故、殆んど茫然自失しました。瞑目沈思すれば 転た懐旧の情に堪へません。聊か同君に関する追憶談を試みませう。同君は小生の所謂 竹馬の友で、明治七年花輪に始めての小学校が出来ました時、最上級の第八級へ組 み入れられた十余名の中の最年少者と記憶します。当時の小学校は、別段校舎のあるで はなし、普通の空家を借りて、男女生徒を雑然と詰め込んだもので、先生も手不足のた め往々二教場位受持ったものでした。或時校舎の狭きため、吾々一級だけ大里君のお宅 の門側の空家を拝借して、授業したこともありました。此時代から同君は、嶄然頭角を 顕はして居りました。 明治九年小学第四級の時、秋田に始めて変則中学なるものが出来て、生徒の募集があ りました。此時応募せるもの鹿角一郡より九名、奈良和市、阿部廉治、關村清藏、川口理 七郎、川村金彌、川村才太郎、佐藤健次郎、奈良八彌(即ち余)、大里文五郎、殆んど 万里遠征の客を送るが如く、花輪学校全体にて送別会を産土神社に開き、親族知己は旧 南部秋田の国境近くまで送ってくれましたが、当時大里君は十三歳、小生は十四歳、秋 田までは三十九里、人力車の便もなく、或は馬或は舟にて米代川を下り、四日を費して 秋田城下に着きまし。 当時を回想すれば、実に隔世の感に堪へません。併し一言誇るに足るは、吾々少年隊 の意気込みです。戊辰の際、我が鹿角人は矛を取って秋田藩に侵入しましたが、此の少 年隊は実に敵の城下に侵入して、其の俊秀と勝負を決すべき勇気がありました。他藩で はあり、一人の親類もなく、昨今欧米に遊学するに比し、一層の困難と勇気を要する次 第でしたが、全級三十余名中、吾々九名は残らず試験に合格して、横行闊歩したもので す。唯小学生徒などより往々『賊々』と呼ばれて、いやな感をいたしました。 当時故折り戸先生、太平学校(師範学校、中学校、小学校合併のもの)に教鞭をとら れし故、其の狭き御住居に残らず同居を願ひ、互に激励したものです。年少ではあり、 思想単純只一途に、他国人に負けまい負けまいと勉強したのです。 明治十三年小生はまづ東京に出て、大里君も翌年出京せられましたが、其の時小生は 、已に工部大学寄宿舎に入り、同君は本郷に下宿して或私立学校に通学して、頻りに受 験準備を急いで居りました。其の時分の東京の遊学は、当今の少年諸君には夢想だもな し得ざる大奮発を要しまして、百数十里の長程中々容易に往来も出来ず、寤寐故郷の美 なる山川を懐想しながら、蛍雪の業を励んだものです。 斯う云ふ有様故、幼年来机を共にせる二人は、東西に離居して、稀に会談する場合は 如何に愉快なりしか、諸君の想像し能はざるものでした。此の時代吾々は、彼の西国立 志編に心酔せると、一方諸国の俊秀に対する競争心激烈なりしとにて、実に寸陰を惜ん で一心不乱に勉強せる事は、是亦当今貴公子学生諸君の夢想する能はぬ事と思はれます 。併し故郷は忘じ難し、旧友は久しく見ざる能はず、毎月一同位は互に訪問し相見て、 先づニヤニヤ笑ったものです。 斯くして居る内、何の話の種もなく、大切なる時間を費すのも無益だとの相談となり 、毎月日をきめて相会し、何か平素感じた事を文章となして持ち来り、互に読み合ふべ しとの事になり、爾来続々『精神一到何事かならざらん』的の名文を交換せしが、其時 の原稿を散失せるは遺憾に堪へません。文章の可否は兎に角、生気溌溂意気衝天の慨が あったものです。 其の後佐藤健次郎君も加はり、石川壽次郎君、青山芳得君、湯瀬禮太郎君、内田清太 郎君(君は前より在京)等続々鹿角衆の上京を見、初めて或る会合を催し、一には郷友 の親睦を謀り、一には励まし合って郷党後進者の模範となり、益々東京遊学の立志者を 殖やそうぢゃないかと云ふ相談より、遂に我が鹿友会の成立を見るようになったと記憶 いたします。爾来最も鹿友会のために尽力せられ、会をして今日の地歩を占むる土台を 作ったのは全く大里君の賜です。 同君は、学生時代より沈着なる分別家で、我々の畏敬せる立派な人物でした。唯働き 盛りの頃より強酒を慎しむ能はずして、遂に短命に終れる事、返す返すも残念です。同 君は卒業後、大都会にて一層研鑽を積みたき希望なりしならんも、愛郷心熱烈なる厳父 壽様は、始めより郷里の病人を救ふ目的にて修業せしめし事故、卒業後は断然同君の外 遊を許し給はず、同君も亦全く父君の意を安んぜんがため、一身を犠牲にして終始郷里 に閉居して、終られたは幾多感慨に堪へざりしならんと思ひます。 酒盃に親みし原因は、或は此辺にあらずやと考へます。何分立派な指揮者を失った郷 里は、甚大なる損失を蒙れるものと信じます。 |