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ほどきちゅうなごんものがたり・おんらいんばーじょん

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中央公論社刊「マンガ日本の古典・堤中納言物語」に、 解説として”解中納言物語”を書きましたが、
このコーナーはインターネット用の「解中納言・追加版」です。
「原作はどういう話だったんだろう?」とお思いの方のために、 各話の紹介を書いてみました。

注> 解説内容は坂田靖子の勝手な解釈が参加しているので、 試験の回答用にはお奨めしません。

−−総論−−

「堤中納言物語」は、 平安時代に書かれた10本の短編小説がアンソロジーの形で伝えられ、 今に残っているものです。
平安時代は、宮廷のサロンを舞台に女性作家が活躍した文学の黄金期ですが、 中でも「源氏物語」はよほど人気があったらしく、 源氏のパロディはふんだんにあったようです。
で、全部源氏パロティ物一色かというとそういうわけでもなく、 他作品のパロディらしきものあり、はたまたオリジナルありで、 宮廷の文壇は、今でいう「コミケ状態」になってしまっているようです。
さすがにコミケだけあって、 ちゃんと「えっちもの」らしき作品も参加しています。


「花桜折る少将」
春の盛り、桜の花に浮かれた「色好み」の少将の話。
この当時の「色好み」は、「女にだらしのないすけべ野郎」ではなく 「粋な通人の男性」を表す言葉のようです。 というわけで、この主人公もなかなか格好良く、 当時としては「粋な」やり方で、超かわいい姫君を見そめます。 このあたり、なかなかすてきな「好き者」ぶりであります。
さて、その「粋好み」の少将は 「花盗人」を気取って夜中に姫君を略奪に向かいます。
おいおい、という感じですが、当時としてはなかなか「趣向のある」 やり方だと彼は考えたようです。
といっても、さらわれちゃう姫君の方はたまったもんじゃないと思いますが、 まんまと成功したと思った後、 あっと驚くとんでもない急転直下の結末になります。
ラストの手ひどいしっぺ返しのつけかたを見ると、 多分、この作品の作者は女性だったんでしょうね。

「このついで」
「春の長雨」と書いてあります。 降るとまだ肌寒いような日々、 しとしとと降る雨に降り込まれた人達が、 閑をもてあまして、 思いつくままに短い物語をしてみました。という想定の話。
物語として起承転結のあるようなものではなく、 思いつくことを 「つれづれなるままに」 話してみました、 という 「エピソードの断片」 のようなイメージのもの。  本来の意味での 「や・お・い(ヤマなしオチなしイミなし)もの」  かもしれません。 多分、実際に「ものがたり」のうまい人達が、 こんなふうに「有り余るひまをつぶす」ために、 まわりの人々に粋なさわりを聞かせる、というような事があったのでしょう。
その場に居合わせた人達は、語られる「エピソードの断片イメージ」を楽しみ、 著作の腕を磨いたり、感性を磨いたりしていたものと思われます。
そういう意味で、当時のサロンのリアルな雰囲気が伺える1本です。

「虫めづる姫君」
当時としては「こんな常識無視の女がいたらすげぇな!」 という視点で描かれたキワ物作品のようですが、 今見ると 「どう考えてもこの主人公の方がマトモなのだが???」  という、「時代の差」 の不思議さを感じさせる作品。  今の 「常識」 も、千年たつとこんなふうに見えるでしょうね。
そろそろお年頃の女の子だというのに、眉も抜かずお歯黒もせず、 虫捕りに夏の日射しの中をかけ回っている・・・ という不思議な女性が主人公で、 その上、最近流行の仏教思想にかぶれていてやけに理屈っぽく、 「もー、小賢しい女なんかやだーっ」 という作者の声が聞こえてくるかと思いきや、 ここに、男性を象徴するらしい「右馬の佐(うまのすけ)」くんが、 象徴的に「蛇」を贈ってからかった揚げ句に、 「自分と友達でわざわざ女装して」 (な、なぜだっ?!)男みたいな女の子をのぞきに行く・・・ という性の大混乱状態。
これの前か後に「とりかえばやものがたり」などが位置するようですが、 この当時、「性」は、取り組むべき大きなテーマの一つだったようで、 あちこちで、かなり正面からかかっている節が見られます。
ラストの「二の巻にあるべし」という結びの文は、当時の恒例のようで、 「これで終わりじゃないよ」という思わせぶりなところが、 雰囲気があると思われて、流行っていたようです。
今は失われてしまったなかなか面白い終わり方のテクニックで、 私はこの結びの慣用句が大変気に入っています。

「ほどほどの懸想」
「ほどほどの懸想」の、「ほどほど」は「まぁまぁ」というのではなく 「身のほど」の「ほど」 つまり「各身分それぞれの恋模様」 というような意味のようです。
薫風香る初夏の葵祭りを背景に、若い小者の颯爽としたナンパ風景、 恋慣れてきた男とベテランの女房たちとの「今風の」恋のかけひき、 恋に世の無常をおぼえる上流貴族の恋の思い、と、 三者三様の恋模様がスケッチ風に描写されています。
さらっとした描写が身上だったであろう作者の力量が伺えます。

「逢坂越えぬ権中納言」
光源氏を思わせる「バリバリの超かっこいい」貴族の話。
主人公の権中納言は、帝にも一目置かれている「スーパー粋人」です。
ライバルの三位の中将もいるし、管弦の後で「階のもとの薔薇も・・・」 などと謡いながら帰ると、女房たちが「きゃーー!」 と黄色い声を上げてバタバタ倒れるようなものすごさで、 いかにも「源氏ネタのパロディ本」という感じですが、 この主人公、光源氏よりまだナイーブな性格らしく、 好きな女に文を送り続けているのですが相手にされず、 なんとか寝所までもぐり込んだのに、姫君に睨み付けられて 「中にまで入ったのに2人の間に何もなかったなんて、 絶対誰も信じないんだからね」などとぐちりながら、 けっきょくすごすごと帰ってきてしまうという情けなさ。
一応、原文の解説によると「平安時代の後半には、 こういう内向する主人公がよしとされて流行していた」というのですが、 たしかに内向しまくっています。
「ただただ泣いていじけるだけの男」というのも、 ここまで徹底するとなかなか面白いかもしれません。
「菖蒲の根合わせ」というイベントも登場し、 初夏から梅雨頃の話のようです。

「貝合」
「やはりうまい人はいつの時代もいるなぁ・・・」と、 読みながらほとほと短編作家の手腕に感心した話。
早朝の冷たい露の中、ススキの若穂に袖をぬらしながらの帰路という、 さわやかな夏の描写に始まって、 ふと見つけた家をのぞき見するという「桜花折る少将」 と似た趣向のオープニングですが、 「親を失った愛らしい少女とけなげな姉思いの弟 vs  イノシシみたいな義姉」 の貝合の争いになんとなく巻き込まれ、 おもわず味方のない少女の方に肩入れしてしまう、という展開で、 いつの間にか当初予定していたナンパの計画は、 どこかに行ってしまっています。
それでも最後の雰囲気に 「これからあの娘の面倒みてやろうっと」  みたいなものが言外に感じられて、恋の行方も多分ハッピーエンドなのですが、 作品中ではそこを出さずに 「子供たちの貝合の駆け引き」 に終始していて  「子供時代の夢」 のようなものを描き出している、 絶妙なバランスになっています。
非常に上品な出来で、 才気走った雰囲気の多いこの作品集の中で、珠玉の名品となっています。

「思はぬ方にとまりする少将」
読んだときに 「こりゃ単なるポルノだよ、どうしようかなぁ・・・」  と、頭を抱えた作品。
マンガの方では内容がわかりにくいと思いますので、 状況をかいつまんで書くと、  「両親を亡くした姫君姉妹がいて、 姉と妹が、それぞれ油断した隙に男が通ってくる状況になってしまって、 しょうがないのでそうして暮らしていると、ある晩、 両方がそれぞれ迎えの車に乗る事になって、 その車がどっちも逆の男の所に行っちゃって、女は抵抗したんだけど、 男はいいからいいからと言って中に連れて入っちゃいました。 男はそれぞれ楽しんだんだけど、女の人達は気の毒でしたね。」  という話です。
で、「つくづく気の毒ですねー」と言われてもちょっと困るなぁ・・・ という感じであります。
最後の 「これは私の創作じゃなくて、他の本を写しただけ」 という結びも、 この当時の流行の一つだろうという気はするものの、 「えっちものは堂々と書きなさい! 責任回避は卑怯だぞ」 と思った私でした。

「はなだの女御」
秋草の競演をテーマにした洒落っ気の強い話。
主文の部分は 「見立て」 になっていて、秋草の花較べになっています。 ことによると当時、それとわかる実在モデルもいたのかもしれません。 初秋の黄昏時から灯りのともる秋の夜長、 話しながらうとうとしている人もいて、匂い立つような女たちの競演風景です。
まったく実在感のないこの話を 「これは本当の話なんです、 もしこれを読んだ人の中で、これが誰それだとわかった人は、 この紙の最後に書き付けておいてちょうだいね」  と締める作者のテクニックのうまさ。
架空の物語だと思っていても、思わず最後に何か書き付けてあるか、 見てしまうに違いありません。
手書きの物語を書いて、回し読みをしていた頃ならではのテクニックでしょう。
この時期らしい、テクニックの極みのような作品です。

「はいずみ」
本の解説によると、「民間説話から採譜したらしい話」だそうです。
前半は 「夫に捨てられかける、いじらしい妻の物語」  後半は 「あまり出来のよくないお嬢様の失敗談」 になっていて、 一応は 「紫の上に味方して女三宮をこてんぱんにやっつけた話」  のようですが、(という訳で、源氏のパロディ本の一つらしいのですが) 秋の深まった頃、残菊の咲く離れに移れと言われて、 寂しい思いをしながら妻が書き物を庭で焼く場面の薄煙の寂寥感など、 パロディの域を超えて、心に迫る物があります。
物語の後半は一転ギャグベースになっていて、 もしかしたら前半とは作者が違うのかもしれません。
ウエットとギャグ、どちらもなかなかよい感じです。
だんなさんの 「気が短くて、考えつくとすぐに実行してしまう」  という性格も、なかなかキャラが極まっていていい感じ。 残菊の咲く月の夜長、秋のさなかの物語です

「よしなしごと」
「奇想天外な手紙を考えついてみました」 というテーマの作品。
これを読むと当時、手紙という書き物が 「作品」 のひとつだったらしい事、 「読まれる」 事を前提にしていたらしい事が、なんとなくわかります。 みんな 「手紙」 を読み慣れていたので、 こういうものを見て 「これは面白い!」 などと言って楽しんでいたのでしょう。
作品の構築の仕方とか資料性を駆使しているような趣味のあたり、 どうも作者は男性のような気がします。 雰囲気的に、 生き物の気配も消えてあたりが静かになった11月頃のイメージです。

「冬ごもる・・・」
「断章」という扱いになっていますが、 先に 「二の巻にあるべし」 とか 「原作は他にあります」  などという、思わせぶりな結びがあったところから考えて、このアンソロジーに、 いかにも続きがありそうに見せるための、 仕掛け的なエンディングと考えた方が妥当だと思います。 この短編集を編纂した人がつけたものかもしれません。
なかなかよい出来で、「冬ごもる空の景色に・・・」  という書き出しから考えて、冬の始め、12月を想定していると思われます。 春の桜に始まって晦日月に終わる、季節感のある編集です。
もしかして、 元は、正月の話から始まって、今は何本か失われたのではないかとも思いますが、 桜三月から華やかに始まっているのもいい感じですので、 紛失作品はないのかもしれません。
堤中納言は、作品的にもそれぞれがバラエティに富んでいて多彩だし、 編者の面目躍如という感じです。




<<追記>>
「堤中納言物語」は古典作品ですので、 読もうとすると、原文そのままの書き下し文つきの本と、 現代語訳の本とがあります。 「現代語訳」の方は訳者の趣味と解釈が入りますので、 どちらかというと、 「原文に書き下し文の対訳つき」の方をお奨めします。
原文でも解説者の趣味は入りますし、 古文の方は我々になじみがないので読みにくいのですが、 洋画を字幕スーパーで見たいタイプの人には、 古文そのままの方がよいようです。
千年も時間が隔たっているのに、 なんとなく文体から感じられるニュアンスというか、 行間から感じられる雰囲気やリズムみたいなものが、 訳文とは違っていることがあるのです。
それに人間、千年や二千年で変わるのは社会制度と常識くらいのもので、 感情面や作劇手法はほとんど変わりません。 何を描きたかったかは、 原文のニュアンスで今でもなんとなくわかってしまうものなんであります。

1999.11.8.



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