おまけ{ギャグとコメディ・喜劇と悲劇についての考察}

ギャグとコメディというのは似ているようで実は正反対だ・・・という話を先にしましたが、 ギャグはその目線の極端さによって「悲劇」とほとんど近い場所にいます。
極端に悲惨な状況下で、完全にかわいそうな事態になってしまうのが「悲劇」というものの成立条件ですが、 悲劇というものは一歩ズレてしまうと喜劇でしかなくなるという、かなりの危険度を含んでいます。
実際の人生で、そんなに不幸ばっかりなわけないだろう・・・というような、 つまり、精神的に病気を抱えた人でもない限り365日泣いて暮らすという事は実際的には不可能で、 その間に笑うこともあれば楽しいこともあるのが普通のバランスですが、それでは悲劇にはならないので たとえば結婚してから死ぬまでずーっと不幸だったお母さん・・・とかそういう設定があり得るわけです。 そして、これは「現実感がなくなる」という危険を常にはらんでいて、現実感がないと思われたときは 「なに一人でシリアスぶってるんだよー」と思われてしまった段階で「喜劇」になってしまいます。
「喜劇」と「悲劇」は、実は同じ状況である事が多いのです。
「喜劇」や「ギャグ」の主人公が、しばしば極端に悲惨な状況下に置かれ、それが悲惨であればあるほど笑いを誘うという構造があります。 (古畑任三郎で言うところの、西村雅彦の今泉君がものすごい悲劇に見舞われ続けるのが、典型的なそれです)

コメディになると、そういう固定化された設定は不自然になる訳で、同じ極端な人格設定にしても、 たとえばずーっと気むずかし屋で不機嫌だったおじいちゃんが、齢78歳にしてヘンなものに出会って、 ふっと笑ってしまったりする・・・ というような、バランスを取るための状況や性格描写の「変化」が波のように逆方向から襲ってきます。
「悲劇」や「喜劇」のような一方向からの切り口の鮮やかさでなく、悲しさや寂しさのような、 沈み込む心細い感覚と、浮き立つような笑いや幸福感との間で、揺り返しながらバランスをとっていく手法が「コメディ」 の本領なのです。(周防氏の映画の、沈み込む感覚と浮き立っていく感覚の、 波のようなうねりが交互に演出されるあのバランスを考えると、わかりやすいと思います)

三谷幸喜氏の場合も周防氏の場合も、黄金期のハリウッドコメディに大いなる影響を受けているみたいで、 特に「シチュエーションコメディ」に近い三谷氏の入り組んだ状況設定のおもしろさは、 作ると病みつきになるものですけれども、設定に無理が見えると強引になりすぎるので難しいところです。
ダイヤモンドとかそのあたりの脚本を、懐かしく思い出しながら古畑任三郎を見ている人もかなり多いのではないでしょうか。

なおドラマで、極端に「笑い」の側にシフトしたものを「ギャグコメディ」と呼びますが、 「笑う場所の多いコメディドラマ」というよりは、 「ドラマの中に大量にギャグを入れたもの」に近いものです。
日本ではこれが「コメディ」という名称で封切られたり放映されたりすることが多く、 「いや、このお笑いの質はコメディのものではないと思うが・・・」と思う事があります。

日本における「コメディ」の成立というのは非常に難しく、かろうじて「渋谷天外がいた時代の 松竹新喜劇」がこれだったのではないかと思います。(藤山寛美は天才役者でしたが、多分、 演出の方面には向いていませんでした。彼のやった劇は「教訓のある人情喜劇」のようなものであって、 天外の時期のシナリオに描かれていた「人間の心理に強烈に揺さぶりをかけてくる、 悲喜劇双方向のうねりと波を操るコメディ」ではなかったのです。)

現在では周防氏がかなりの線まで行ってくれているように思いますが、 この先どんな感じになるのでしょうか。 日本でも「コメディ」が作られるのでしょうか。
映画館を出て、まわりの世界が今見た映画のように変化しているのかなぁと思うような、 そういう気分になるのかなぁと考えたりしています。そうなると、また日本の映画界が復活するのかもしれませんね。


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