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>> で、この人は 「”見えない”事は恐ろしくない、”闇”は恐ろしくない、 闇の中に想像が幾千もの翼を響かせる、それが見えるからいい。  光の中で見える物のデッサンにはあまり意味がない、 闇の中に見えるものを描くべきである」 と言うのであります。  これは当時、絵がヘタで困っていた私にとって衝撃の言葉でした

このあたり、何が衝撃だったのか、 まんがを描いてない方にはピンとこないかと思うので、 ちょっと、まんがの絵について説明してみます。

まんがというのは「絵」で描いて内容を伝えるものなので、 つまり「絵」がダメだと、まんがの内容が 読んだ方に全然伝わらないわけです。 で、普通は、 自分が感じたことを絵で表現するためには、 絵がうんとうまい方がいいわけですね。(あたり前ですが・・・)

「漫画の描き方」の超古典であるところの、石森章太郎先生の「まんが教室」 という本がありまして・・・
なにしろ、私が中学生の頃にはこの参考書しかなかったのですが、 とにかく、石森先生は非常にテクニカルな描き方をする人で、 たとえば「風」を表現するなら「大きな木の枝を揺らして吹きすぎていく風、 乾いた道を砂埃を巻き上げて吹く風、夏の風鈴をちりんと鳴らす涼風・・・」 などで、暴風、熱風、そよ風などを表現すれば、 読者にどういう風なのかが伝わる・・・  というのが石森先生の教えてくださったテクニックで、私はそれを読んで 「おお!確かにそうだっ!」 と思ったまではよかったのですが、モンダイは、 「確かにすばらしい表現手段だが、大木の枝を吹き散らしていく風を 描こうとして「太い枝」を描いたつもりが、へなへなの枝にしか見えなくて、 吹いてきた風がそよ風にしか見えないナサケナイ画力の場合はドーするか ・・・」 でして、いや、それよりもまず、描いたものが「枝先の葉」 に見えないでただの黒い固まりに見えたりして、 葉っぱだかコンニャクだかアメーバだかわからない場合はドーするのか・・・
という、まったく基本的にして根元的な「画力」のモンダイに突き当たっていたのであります。
絵が下手だとなると、この手法は、 表現方法としてまったくタチウチできないのであります。

仕方なく、他にも方法はないかとウロウロと模索していまして、  「手塚治虫先生は、石森先生とはまたちょっと違う描き方をしているような気が するのだが、手塚先生もまんがの描き方の本を出してくれないかなぁ・・・」  と思っていたところ、うまい事にそのあと手塚先生の「まんが大学」 という本が出たんですけど・・・ わはははははーー! これはだめーっ!

手塚センセイはどうもカンで描く人らしく、 ご本人のまんがの説明にもナンにもなっておりゃせんのです!
いや、もちろんちゃんと「漫画の描き方の詳しい説明」は、 とても丁寧に親切に書かれてあるのですが、これが実際、 何一つ、まったく全然と言っていいくらい、自分が実際に描くときの役に立たない!!

石森先生のはまだ、本を読んでそれを参考にして地道に進めば 石森先生のようなまんがのおもしろさに少しずつでも近づけるかもしれない・・・ という、ご本人の魅力の延長線上に描き方説明があるのですが、 手塚先生の場合は、この本の説明を読んだって、「なんでドシリアスの最中に ヒョウタンツギが出ても、 読者がしらけずにそのまま先に読み進む事が可能なのか (ワタシは、主人公が生きるか死ぬかみたいな ドシリアスの切迫した場面で、 オムカエデゴンスに出られて死ぬかと思った事があります!)」  なんて、いっさい説明は書いてないし、この本を読んだって 全然わからないのであります。  (注> わたしはこれが非常に重要な要素だと思っていて、 これを軽々とやってのけられるところに、 手塚先生の作品の鍵があるような気がしています。)

で、けっきょく、私が1番参考になった(実践的な)まんがの描き方の本は、 そういう直接的なHowToものではなく、やなせたかしさんの書かれた  「まんが学校」 という、渋くて地味な本でした。

ものすごく古い話なのでご存じの方は少ないと思いますが、 その昔、やなせたかしさん(アンパンマンの作者として有名ですが、 本来は1コマまんが家さんです)は、NHKの夕方6時くらいの番組で 「まんが学校」という、子供向けの番組を司会されていて、 その関連としてこの本が出版されたらしいのです。
本の中身は「漫画の描き方のテクニック」というよりは  「まんがのアイデアの出し方」と 「まんがという表現手段についての考え方やとらえ方」 でした。

一番印象的だったのは加藤芳郎さんの話で、加藤芳郎さんは、 テレビ番組やCMなどにも出ていたことのある1コマ漫画家さんでして、 とても丸っこい温厚そうな紳士ですが、この人のマンガは「笑いの王様」 と呼ばれていて、軽いタッチで気楽に読める、 楽しいお笑いマンガなんです。

その1コマを描くのに、加藤芳郎さんは寝ないで冷や汗を流して 体を壊しそうになりながらアイデアを絞るらしくて、 実にタイヘンなんですけど、出来上がったマンガには そういう苦心の痕跡はミジンも入ってなくて、 ノンキで気楽で楽しいお笑いが展開されているのであります。

ホントに人に楽しく笑われようと思ったら、 このくらいギリギリに崖っぷちに立って、 命を削ってかないと描けないんだなぁと思いましたが・・・

そうやって出来たマンガを人が見たときに、 作ってる人が汗を流してるとこが作品の中にちらっとでも見えたらもう失敗で、 バレエの人がゼーハー息を切らしてジャンプしてたらダメなのと同じです。

肩で息をしながら、必死の形相でいまにも死にそうにジャンプされては、 楽しく観てるどころの話ではなくなるわけで、「あっ、苦しそうだな、 あんまりムリしなくていいよ、だいじょぶか? もうヤメてもいいよ  そのへんで終わりにしたら?」 なんてハラハラしてしまうようでは、 見ている方もそれが気になって、落ち着いて楽しめない訳です。
かといって、ラクなやり方でちょちょっと小さく飛んで、 息の切れない程度に全力出さずに踊っていたのでは、 見ている人も、それほど楽しくないのであります。
全力でギリギリでやっているんだけれども、 はた目に全力でやってると気づかれないほどうまければ、 見てる人は、よけいな楽屋裏を気にせずに、 目の前のものに没頭して楽しむことが出来るわけです。

「まんが描き」に限らず、なにか人に楽しんでもらう仕事というのは、 基本的にそういうやり方のモノなんだなぁ・・・ と思いましたが。
とにかくその加藤芳郎さんのマンガ、 1コママンガでシンプルなタッチの線なので、実際に絵を描き始めてから 描き終わるまでは、もしかするとものの10分もかかってないかもしれません。
加藤芳郎さんは、そこの部分に長時間冷や汗流して練り上げてたんじゃなくて、 重要なのは(と言うか、集中力と時間をかけまくってギリギリまで 追いつめてたのは) それ以前、  「何を描くか」 を決めてる「アイデア」の部分なんですね。

「まんが学校」の本を読んだのは中学時代で、 オディロン・ルドンの画集を見たのはそれよりもっと後でしたが、 真っ黒な版画で、ひたすら黒をぬりぬりぬりぬりして、 ただただ黒い画面を描いてるのに、 なんだかとってもフシギな雰囲気になってて、静寂な空気の冷たさもあって、 「黒」でなく「闇」に見えるちょっとフシギな感覚だったので、 「いいなぁこれ」 と思ってにこにこと買ってきて、 絵を見てから後ろの解説まで読んだら、そこにその  「目で見た物を画面の上に正確に移すのが重要じゃないんです、 自分が心の中で見えてるものを、なんとかして紙に写し取ることが、 ”描く”っていう事なんです」 というコメントが載ってた訳です。

自分がずっと「何かを描くっていうのは、こういうことなんじゃないかな」  と思っていたことを、改めて言葉にして参考図版まで入れて 説明してもらった感じ。

「そうか・・・ そうなんだよな・・・」 と、 ワタシは何か非常にナットクしました。
要するに、何かを伝えるために絵はうまい方がいい、 限りなくウマイ方がいいんですけど、 それは目で見ている物の形を正確に写し取る能力じゃなくて、 他の人と一緒に見る事が出来ない闇の中の事物を、 自分の手で紙の上にデッサンしていく事なんですね。

考えていることを何とかして伝えられることが、 絵の形を間違いなく正確に描けるかよりもより重要で、 考えてることが、なんとかして見ている人の中に伝わっていけば、 手段は自分の使える方法でいいし、絵をウマク描くことそれ自体は、 伝達の一手段でしかない・・・てな事なんであります。

そんなわけで私は、絵で描けないトコは字で書く事にして、 訳の分からないスクリーントーン貼るやらヘンなもの写して描くやら、 なにも描かない真っ白作るやらセン1本だけへろへろ描くやら、 とにかくまぁ、どんな手段でも、描こうとした事がとにかく伝わりゃいいんだろう ・・・ てんで、(なにしろ先に書いたように、絵がヘタなもんですから・・・)  手段かまわず描いてきた所があるんですけど、で、時々  「変わった手法使ってますね」 とか言われるんですけど。

そこ・・・絵が描けなかったんでそうなった・・・とは・・・ ちょっと言いにくい・・・かも・・・


2002.2.1.


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