<<<イカした現代美術(オマケ)>>>

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<芸術作品の価値>


実用的であるかどうかは、なかなか重要なところです。 というのは、美術作品というのは”より役に立たないものを目指す”のが、 制作の目的だからです。

(ちなみに「実用品」であるべき「大量生産の日用品」をデパートで買ってきて、 「芸術作品!」と言い張って美術館に出品したのが、 私の大好きなマルセル・デュシャンです。 これはもちろん「芸術品」です。  彼の買ってきた雪かきシャベルも、自転車のサドルも、瓶掛けも、便器も、 彼が「芸術品です」と言ってサインした後は、 本来の目的には使われずに美術館に飾られて、 たしかに 「実用品」 でなく  「実用に使えない芸術作品」 になりました。
最終的に 結果オーライ型 で、  バリバリの実用品 から 非実用品 に変異した  ”ミュータント(突然変異)タイプ” です。)


例えば、「誰が見てもきれいな花の絵」は「インテリアとして役に立つ」 ので実用的です。 「めちゃくちゃきれいな女性の絵」 とかいうのも、見た人が喜んで実用的です。  こういうのを描く人は 「けっ!  金になるような、世間にゴマスリの絵なんか描きやがって、 おまえなんか芸術家じゃない!」 なんて言われて軽蔑されたりするんですが、 かまわずにガンガン描いていただきたい。 描き続けると、 いくら売れていようがキレイで大衆受けしようが、 伊東深水画伯や東山魁夷画伯あたりまでくると、もう誰も文句を言いません。

歌麿や広重や北斎だって、浮世絵の販売当時は単なる実用品で二束三文(多分) でしたが、実用品でも最終的に内容さえ素晴らしければいいわけで、 今では再版で3枚組みで70万(かな?)で売れてしまったりして、 当時の本物はどこかの美術館に丁寧に納められていたりして、 最後には美術作品に成り上がってしまっています。  この人達なんかは、「芸術家のおとなり」にいたんだけれど、 最終的に「芸術家」に認定されちゃった人達です。

美術・芸術系には、わりとこういう人達がいます。

19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパで流行った「アフリカの仮面」 みたいなものも、現地では呪術や宗教に使う実用品だったのですが、 ピカソなんかが見て「これはものすごい美術品だ!」と思ってしまったので、 美術作品として認定されちゃいました。  美術品と美術品でないもの、芸術と芸術でないものとの境は、 だいたいこの程度に曖昧なものみたいです。

話がそれました。

さて、どう見ても実用にならないものに熱中する人もいて、 例えば「汚い泥だらけの婆さんの水死体」とかいう絵だと、 ちょっとインテリアとして買う気にならないでしょうから、 そういうのを描きたいとしても、完成した作品は非実用的なわけです。
しかし、実用にならなくて売れなくても、どーしてもこれが描きたい! ・・・とゆーのが「芸術家のタマシイ」というやつで、 どうしても熱情が止まらない−−−という場合はそれを描きますよね (かなりヘンなシュミですが、 本人がどうしても描きたいのですからしょうがありません)。
で、まわりが見て、本人以外にはだれがどう見ても、 世界中の誰の興味も引かない・・・ というものの場合は、それは単なる駄作というか、 作者1人にしか意味のない超個人的な創作物というか、 とりあえず他の人には理解できない、他人には無価値なものになります。
そういうものは、一般的に「芸術作品」とは言いません。

しかしそれがちょっと不思議な絵で、なんとなく印象深かったり、 どことなくインパクトがあったり、 見た人がいつまでも覚えてるような絵だったりしたらどうでしょうか?
何の実用性もないけれど、 そういうのは美術館に置いてもかまわない種類の物(芸術作品)です。

また、「ワタシもこれが好きだ!」という同好の士が出てきて、 その人がお金持ちなら 「私が生活費になるよう作品を買い上げてあげるから、 もっとドンドン作ってワタシに見せてくれ!」 というかもしれません。 (いわゆる、これが ”パトロン” というやつです)

とりあえず、ごくおおざっぱにいって、「実用性な価値がないけれど、 見る人に何か強い印象を与えるもの」が「芸術作品」  実用性を目的に作る物は「商業美術」あるいは「商業デザイン」 というものになります。 (実質的にはそんなにたいして描き方や内容が違うわけではありません。 たれパンダとゴッホのひまわりは、 個人が描いた「絵」というジャンルという点では同じです。 描く目的が違っただけです。)

「実用にならないのに、なんで芸術品の方が実用品より値段が高いのだ??? 役に立つ物の方が高いのが本当だろう。価値の付け方が逆じゃないか」 とお思いの方もいるでしょうが、 実は芸術品は「単品」としての値段がある程度高いだけで、 例えばポスターなんかの商業デザインでは、 1枚のポスターが印刷されて動く費用の「総額」は、 そのあたりの芸術絵画よりずいぶん大きい金額である場合が多いのです。  (そして「ポスター」は、「原画1枚」 は完成品ではなくタダの「印刷のための版下原稿(材料)」で、 最終作品は「印刷されたポスター ん百枚 ん千枚」の束の方なのであります。)

もちろん、ピカソやゴッホなんかのスーパー芸術家の作品は、 芸術作品の中でも飛び抜けてスゴイ単品価格ですが、 あれは美術館などに収蔵展示されて客が来るだけでなく、 その絵がポストカードになって売られちゃうとか、 タオルになっているとか足拭きマットになっているとか、 まずは教科書や美術本に載って売られたりなんかして、 ありとあらゆるものになって売られる取引総額を考えると、 総合的利用価値として、やはりすごいものなんであります。

ゴッホの「ひまわり」が1枚何億円したからといって、 多分、それに関連する売り上げの総額を考えれば、 絵1枚の取引金額を軽く超える金額が、 何らかの形で動くでしょう。
しかし、それが、絵を描いた作者の元に「直接」入らない、または、 絵を買った人の元には「直接」入らない−−−というのが、 芸術作品の経済循環の、とびぬけた特徴です。

やっぱり、芸術作品はあまり実用的なものではありません。



2001.1.7.


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