2 宇宙と人間

 題名はいささか誇大妄想気味であるが、以前から考えていることを書いておきたい。
 高校の数学で、1/nのnを1からはじめて無限大まで大きくすると、1/nは限りなく0に近づくが、決して0にはならないことを学んだ。この数式を転用して、宇宙を分母とし、人間の事績を分子に持ってきたらどうなるかというのが今回のテーマである。
          
人間の事績
           宇  宙
 宇宙は広大であるが、一様等方(1998年10月現在では、宇宙の大規模構造は泡状であることが明らかにされつつあり、この学説が主流派になっると、またまた変わることになる)で境界が不明瞭であるから、人間の事績がいくら大きくとも、限りなく0に近づくであろう。しかし、0にはならない。ここから、いろいろな問題を提起することができる。

(1) 人間の矮小さ

 まず思いつくことは、宇宙における人間の矮小さである。いくら力んでみても、人間のすることはたかが知れていることになって、人間の慢心や思い上がりを防ぐ手だてとすることができる。しかし、この考え方に対しては、人間の努力の成果を否定するもので、とても承服できないと反論が出て来そうである。その場合には、0近づいた部分を電子顕微鏡で拡大して、やはり人間の事績には差があると確認すればよい。その場合にも、気がついてみたら現在のような能力を持っている日本人として生まれついているという意味で、人間は自分で自分の素質を決定できないことをどう考えたらよいか、決着をつけておく必要がある。これについては、別に「偶然と必然」と論題を変えて取り上げたい。

(2) 人間の認識能力

 次に考えられるのは、宇宙における人間の存在は矮小かも知れないが、宇宙を認識できる能力を持っているのをどう考えるかということである。パスカル(1623-1662)が『パンセ』(1669)の中で「人間は一本の葦にすぎないが、考える葦である」と述べたように、宇宙と人間というように物理的な外見上の大きさで比較するのは無意味であると考えることもできる。しかし、それでは人間と宇宙を比較する場合に、どのような尺度を設定するかとなると、万人とはいわないまでも大方の人間が承認できるような尺度は、見つけようとしてもなかなか見つからない。そもそも、人間が認識してはじめて宇宙が存在するのか、それとも人間が認識していなくても宇宙は存在しているのかという疑問にとりつかれると、もはや安直な回答は出て来なくなってしまう。最終的には、デカルト(1596-1650)の「我思う、故に我あり」となるのか、私が星をみるから星があるのかということになる。それとも全く別な考え方があり得るのかと、いつも堂々巡りに陥ってしまうのである。あるいは、地球上に存在する炭素を中核とする生命から進化した人間の認識能力では、この難問には答えられないようになっているのではないかとも思う。それでは、現代化学や分子生物学でも確認できているわけではないが、存在する可能性がある珪素生命や窒素生命ではどうか。それとも、人間が思いつく疑問には何でも答えられると思い込むのは、人間の認識能力の限界を知らない者のおごりであって、今日まで進化したに人間の大脳といえども、何でも答えられるだけ充分に進化しているとはいえないのかも知れない。
 進化といえば、クローン羊やクローン猿が出現する現今では、遺伝子の研究が進むと、パソコンの記憶容量を簡単に増加できるように、やがて人間の脳も思考力や記憶力を増大できるようになるかも知れない。一般の人が知らないうちに、研究の最前線では、そのような研究は既定事実となっているのかも知れないが、クローン人間を生産する前に、人間の定義を明確にしておく必要があると思う。何故なら、人間自身にかかわるこの種の問題は、これまで人間が直面したことのない深刻な問題となることは明らかだからである。21世紀の中頃を想定すると、クローン人間の生産を禁止し続けたとしても、技術的にはクローン人間を生産できる状況が出現しているであろう。クローン人間を作って、その臓器を本人に移植した場合、臓器を切除されたクローン人間が死んだとすると、殺人罪となるのかどうか。ならないとすれば、クローン人間と純正人間を判別するのに何を用いるのか。あるいは、大脳を入れ替えても、元の人間であるといえるのか。そもそも人間とは、この宇宙の中でどのような存在なのか。

(3) 回答の多様性

 三番目に考えられることは、こうである。人間の事績/宇宙が0に限りなく近づくということは、回答は一つではないことを意味している。1998年10月現在、宇宙の大きさは確定できていないから、人間の事績を確定できた(表現するのは簡単であるが、実際には不可能か ?)としても、回答は一つではない。私たちは、学校教育の場でテストには必ず正解があると思いこまされているから、疑問には必ず一つの正解があると信じがちであるが、宇宙全体を対象とするような疑問に対しては、必ずしも一つの正解があるとは限らない。そもそも正解であるかどうかをどのようにして決定するかとなると、例えばアインシュタインの一般相対性原理が21世紀中も持ちこたえられるかどうか不明なように、すべての原理や原則が揺らぎ出すのである。

 冒頭の数式に関しては、イマジネーションが豊かであれば、もっとたくさんの解釈を引き出すことができるのであろうが、筆者は、天気のよい夜に天体観測をしながら、以上のような疑問の周辺を堂々巡りするのを楽しみにしているのである。(1998.10)


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