そば名人

 約束の午後5時に、東電の松崎さんに案内されて、そば名人が来た。石塚義夫と名乗ったそば名人は、身長180センチ、体重90キロの巨漢であった。

 持って来たそば打ちの道具を運び込むと、これがまた大変だった。さすがに名人は違うと、眺めていた者はみな感心する。のばし台、麺棒4本(通常は3本でよいとのこと)、のし鉢、いかつい大きな包丁、大鍋、まな板、こま板、篩、桐の箱など。

 そば粉は水府、金砂郷、会津高田、会津山都の4種を持参したが、そば粉の味の違いがわかるように、そのうち常陸太田の近くの金砂郷と会津山都を使うことにした。

 そば粉を篩にかける。篩には二種あって、最初は目の荒い40メッシュの方を使って、そば粉の中のかたまりを取り除く。

 まず、練り鉢に1キロのそば粉と200グラムの小麦粉を入れて、10対2の割合とし、よくかき混ぜる。この時、髪の毛が混入しないように、頭を手ぬぐいで包んで、海賊の頭のようにする。次に水を注ぐのだが、この時の水の量は、粉の重量に対して50パーセントぐらいである。この場合は、約600ccの水を目盛りのついたカップに入れておいて、最初はその半分を入れる。入れすぎるのはよくないので、素人は少な目にして後から追加する方がよいとのことである。水を吸って球になったそば粉を何度も何度も手でもみほぐして、水が粉に均等にしみ込むようにすること約10分で、握ると餅状になる。それを手の握力で細長く延ばして折り曲げたときに、ひび割れができなければOKである。

 今度は、のし鉢の底へ押しつけるようにしながら、球状になったそば球を練る。90キロの巨漢が息を弾ませながら練るのは圧巻である。この練りが、そばに仕上がったときの腰の強さを決定する。練るこつは何かとたずねたら、大胆かつ繊細にとのことである。練っている間に、急に柔らかく感ずるようになるそうで、そこまで練ればよいわけである。

 次には、のばし台の上で、そば球が直径30センチぐらいになるまで、回転させながら手で押して扁平の円盤にする。そして、いよいよ麺棒で延ばしにかかるが、毎回45度づつ回転させる。そばの生地が麺棒に張り付かないように打ち粉をしながらそばの生地を延ばす。麺台よりも大きくなると、麺棒を2本使って上手に巻き取りながら、更に薄く均等に延ばす作業を続ける。この間に、延ばした形が四角になるように、麺棒で加減する。最後には厚さ2ミリで、約80x120センチ四方の薄いそばの生地ができあがった。

 次は、裁断である。幅30センチぐらいにそばの生地をまな板の上に折り重ねたものに桐の板でできたこま板を当てて、大きな包丁でリズミカルに切る。その幅は約2ミリで、切ったそばの断面が長方形ではなくて四角になるようにする。一人前づつに切ったそばは、四角の和紙に乗せて、横60センチ、幅30センチ、高さ6センチの桐の箱に並べて置く。その様は、いかにも高級なそばができあがったという印象を与える。

 櫛田さんの妹が連れてきた二人の幼稚園児とひとりの女の幼児(ホームページの案内板の写真に写っている子供たち)は、櫛田さんの母親の制止にもかかわらず、ログハウスの中で運動会をやっているので、すごくにぎやかである。この冬に初めて暖炉に火を入れたので、室内に充満した煙には悩まされたが、室内の雰囲気は盛り上がった。

 切り終わったところで、ゆでにかかる。ゆでるには、大鍋に水を沸騰させておいて、さっと入れてさっと上げるのがこつである。その間、約30秒。その時、そばを入れたとたんに沸騰しなくなるようでは、火力が弱くてよくない。それで、大鍋に大量の水を沸騰させておくわけである。わが台所には、四つのガス台があったが、それでは大鍋には大きさが不足で、本格的にゆでるには不十分であるとのことであった。

 そばをゆで始める前から、松崎さんの奥さんが作って持ってきてくれた煮物を肴にして、小山、松崎、櫛田の3人とホストの私のほかに、松崎さんが連れてきた牧瀬さんが加わって、櫛田さんが持参した一耕(いちこう、出羽桜、純米酒)を冷やで飲み始めた。そこへ、ゆであがったそばを櫛田さんの妹さんと松崎さんの奥さんが次々に運んできてくれた。うまい!私は、東京ではそばの味を味わうために、盛りそばしか食べないのであるが、前評判どおりに確かにうまい。これまで東京のそば屋で味わったことにない味である。腰が強くて、なめらかで、歯ごたえがある。子供の時に母が打ってくれたそばとは、また違った味である。

 この時のそばつゆは、しょうゆとみりんと酒を混合したものに、畑から抜いてきた無農薬の青首大根を歯の荒い竹製の大根下ろしで擦ったものを調味料にしたのであるが、そのそばつゆもそばの味を引き立てている。このそばつゆは、そばを食べ終わった後に、そば湯を入れて飲むと甘くておいしいとそば名人がいうので、飲んでみた。なるほどいわれたとおり、残っていた大根の粒がそばつゆになじんで、これもまた東京では味わったことのないうまさだった。そのほかに、畑から抜いてきたばかりのわけぎを調味料に用意したが、私はそばの味を乱さないように、使わなかった。

 「金砂郷」の粉で作ったそばを子供たちも食べ終わったところで、次は「会津山都」の粉のそばを賞味することにした。今度は、そばつゆは合鴨に表面を軽く焼いたねぎを加えたものだった。まさに鴨ねぎである。そのそばも、前のとは違った味がして、うまかった。こうして、子供も入れて11人で20人分のそばを食べたのである。出席した者は、みな満腹して上機嫌であった。

 その後は、櫛田さんが持ってきたハンガリーの「トカジ(Tokaji,1994)」という白ワインを飲み、打ち上げにはホストがオーストリアの貴腐ワインのハーフ・ボトルを提供した。テーブルの上は、食器とグラスでいっぱいとなった。ワインやリキュールを飲むときは、種類ごとにグラスを代えるからである。こうして、午後5時から始まったそば名人の演技は、9時近くで終了し、櫛田一家6人と松崎さんの奥さんは、大いに満足して帰宅した。

 残った5人の男は、上弦の月を一日過ぎた月は明るかったが、よく晴れていたので、50センチの反射望遠鏡で木星と土星と月のクレーターを覗いて楽しんだ。飲んだときは、台車から転落すると大怪我をしかねないので、1メートルの反射望遠鏡は使わないことにしている。口径10センチ20倍の双眼鏡では、すばるが視野いっぱいにひろがって見えてすばらしい。ホストは、日中の肉体労働と酒の酔いで身体がだるかったので、説明係はこの天体観測所建設の功労者である小山さんにおまかせした。

 寒くなったので、一時間ほどで引き上げて、今度は暖炉の周りに集まって、シャルトリューズ・グリーン、コワントロー、アイリュシュ・ミストなど、アルコール度が強くて甘いリキュールをなめながら、それぞれ得意の話題をしゃべり合った。オートバイから野菜の栽培法まで、まさに論断風発。ところが、酔って盛り上がった時には、ホストの期待に反して、天文は話題にならないのが残念である。やがてしゃべりくたびれて、12時過ぎには、みな二階の屋根裏部屋のふとんにもぐり込んだ。

 翌朝8時過ぎに、費用の精算のために一万円札をそば名人に差し出したら、材料費の五千円でよいという。交通費はというと、趣味の費用は自分持ちなのだといって受け取らないので、好意に甘えることにした。

 以上が、わがログハウスで行われたそば宴会の顛末である。この記事を読んだ者で、テーマが何であれ、我こそはと思わん者は、名乗り出てもらいたい。場所は喜んで提供する。特に音楽の生演奏を期待している。ログハウスには30人くらいは入るから、必要に応じて人数集めもしよう。ただし、暖かく歓迎はするが、出演料は支払えそうがないことをあらかじめ承知しておいていただきたい。


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