3 偶然と必然 

 「宇宙と人間」で述べた人間の努力については、現在のところ、次のように考えている。
 1920年代の後半に、エドウイン・ハッブルが、ウイルソン山の100インチ反射望遠鏡を使って観測し、星雲からの光のスペクトル分析の赤方偏移から、遠い星雲ほど高速で遠ざかっていると発表した。その後、幾多の観測結果から、この宇宙が膨張していることが明らかになった。第二次大戦後に、ロシヤ生まれで米国へ亡命したガモフが宇宙は過去に超高温、超高密度の状態から始まったと提唱した。その当時は、赤方偏移以外にはその証拠がなかったが、元素生成比と絶対温度で2.7度の宇宙背景(黒体)放射が観測されて(1965年)、大爆発説は有力となった。1998年7月現在では、その膨張を過去にさかのぼって、150億年から80億年ほど前(学者によって数値が異なる)に宇宙は大爆発を起こし、その爆発で現在も膨張していると主張するビッグ・バン(大爆発)宇宙観が主流となっている。この学説に対しては、フレッド・ホイルなどの定常宇宙論が対立しているが、その学説でも宇宙の膨張は観測事実として認容している。
 そこで、宇宙が膨張していると聞くと、一直線に膨らんでいるとすれば、すべては必然的に拡がっているのではないかとの印象を受ける。果たしてそうなのか。宇宙の地平線(膨張する宇宙では約200億光年の彼方から発せられた光は、後退速度が光速度に等しくなるので、それ以遠の光は届かなくなって、原理的に観測が不可能になるので、その境界線をいう)内の現象は、偶然なのか必然なのか。このように問うとどうなるかというのが、今回のテーマである。
 宇宙の膨張は、クオークや電子や陽子や中性子などの間に働く力ーーこの宇宙で働く力は、ニュートン以来の重力、マックスウエルの研究に負うところが多い電磁力、陽子と中性子を原子核内で結合させている強い相互作用、素粒子の間の弱い相互作用の四つであるといわれているーーの相互作用によって必然的に決定されているのか、それとも四つの力の相互作用の間に偶然の入り込む余地があるのかと問うたときに、何と答えればよいのであろうか。偶然が入り込む余地があると答えたとすれば、その根拠は何なのであろうか。観測か、あるいは推論か。それとも、このような設問の立て方自体が見当違いなのであろうか。
 残念ながら独学で天文学を学んできた現在の筆者は、この問いに答えられるだけの充分な知識を持ちあわせていないが、これまで63年間も生きてきた経験と知識を総動員して考えると、どうも偶然の入り込む余地はないように思えてくるのである。
 地球上の喜怒哀楽も、太陽系の惑星の自転や公転も、太陽系を含む約一千億(二千億といわれることもある)の恒星からできている銀河系宇宙の約一億年を必要とする自転も、宇宙の膨張も、すべて四つの力の相互作用の結果であるとすれば、宇宙内のすべての現象は必然であって、偶然はないように思える。宇宙の森羅万象の一部である人間(このように人間をとらえることも問題であるが)の存在も、人間の存在を前提とする認識作用も、すべて必然であって偶然の入り込む余地はないのではないか。人間の願望や意思とは関係なく、すべてなるようになっているのではないかと思う。
 ところで、以上のように考えて、すべての現象は必然であると臆断することもできるが、その前に検討してもよい課題がいくつかあるように思う。
 その一つは、ハイゼンベルクの不確定性原理である。この原理は、量子力学の分野では一般に二つ以上の物理量を同時に確定することはできないと表現されるが、人間の脳の認識作用との関係はまだ充分に解明されているといえる状況にはない。心や精神や幸福感などと同様に、あと何十年かして解明されれば、すべての現象は必然ではなく、人間の願望や意思によって、ある程度までは変更ができることが解明されるかも知れない。しかし、そうなった場合にも、すべて人間の自由になるとは考えられないから、どこまでが人間の願望や意思で左右できるのか、その境界は現在と同様に曖昧なままに残るのではなかろうか。
 もう一つは、人間の認識があって宇宙が存在すると考える立場からの追求である。日常生活でよく経験するように、現在の人間の一般的な認識では、人間は努力すればある程度までは目標を達成できることは明らかである。少なくとも人間の意思によって達成できる、あるいは達成できたと信ずることができる。これは、一般的に認められている事実(事実とは何かを追求し出すと、またまたぐらついてくるのであるが、、、)である。しかし、それとても、そう思いこんでいるだけで、なるようになっているだけであると考えることもできる。宇宙と対比すれば、個人としての人間の認識できる領域は極端に狭く限定されていて、宇宙の全現象を認識できないから、人間の意思によって達成できたと錯覚を起こしているにすぎないのではないかと反論されると、足下がぐらついてくるのを押さえることができないのである。
 ところで、宇宙のすべての現象が必然ならば、人間の願望や意思は入り込む余地は全くない。偶然のないところに意思の自由も選択の自由もないことは明らか(?)である。そうすれば、人間の努力の余地はなくなり、努力すればそれだけの成果が挙がるという前提に立っている教育は、根底から揺るぎ出すことになる。しかし、もしも量子の極微の領域のように偶然が支配しているとすれば、人間が選択の自由を行使できる余地が出てくるかも知れない。そうすれば、努力する者は報われることになり、『史記』を著した司馬遷のように「天道是か非か」(拙著『史記点描』第四十二話)と深刻な自問を発しなくてもすむようになるわけである。

 いずれにせよ、人間の意思の自由を追求しようとすると、宇宙における人間の存在をどのようにとらえるかが問題となり、容易に結論が出せないのである。(1998.10)


            トップへ戻る Return to the top page

目次へ戻る Return to the table of contents

天文随想へ戻る Return to the essys on astronomy