四季と和菓子の情報源
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No.001_01 とうきょうと・いれい・の・ひ(せんさい・じゅんなんしゃ・くよう・き)
東京都慰霊の日(戦災殉難者供養忌)
3月10日
[歳時/春]
[戦争]
[亀戸]
   東京大空襲の記念日にあたる毎年3月10日を、東京都が「東京都慰霊の日」と定めている。戦争犠牲者の慰霊のため、戦禍をいたみ、平和を祈りたい一日。

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲により、特に江東地区は壊滅した。亀戸一帯も猛火に襲われ、総武線の土手から、一面焼け野原ではるか白髭橋が見渡せた。江東区だけでも殉難者は約3万人にのぼり、墨田区両国の東京都慰霊堂には約10万5千人の犠牲者がまつられている。

 東京亀戸・普門院ではこの日、戦災殉難者供養忌として、有縁無縁の殉難者のために読経がささげられる。
(関連図表=なし)
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<関連項目>該当なし
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No.001_02 ぼん・くよう(うらぼんえ)
盆供養(盂蘭盆会)
[歳時/夏]
[民俗風習]
   故人や祖先の霊を迎えて供養する行事。7月13日の「迎え盆」には、提灯を持ってお墓まで故人の霊を迎えに行ったり、迎える各家で「迎え火」を焚く。迷いなく霊に帰ってきてもらうためとされる。以後、なつかしい御家にとどまってもらい、故人の好物など精進の膳食をお供えし、供養する。16日(地域によっては15日)には、「送り火」を焚くなどして、惜しみつつお送りする(*1)。
 この間、仏壇に精霊棚(しょうろうだな)を設け、近親者参集してご僧侶に読経をあげてもらう。仏壇には、お迎えとお送りの日に白だんごを上げ、打菓子(らくがん)やおはぎ・おまんじゅう、故人のご好物などをお供えする。

〔由来〕
 お盆は、釈迦が祇園精舎で説いたとされる仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)に由来する。釈迦十大弟子のひとり・目蓮がすぐれた神通力で亡き母を探し求めると、その姿は餓鬼道で逆さに吊るされてもがき苦しむ有り様だった。目蓮は釈迦のもとに駆けつけ、母の救済をたずねたところ、釈迦は「生前の罪深くして苦しみを招いた母をおまえ一人の力ではどうすることもできないが、夏修行の終わる7月15日に、多くの僧に供物をささげて供養せよ。そうすればおまえの母はもとより、七代にわたりことごとく救われよう」と諭した。
 祖先霊を迎え送る土着の習俗と、この仏教思想が融合され、日本では「盆供養」が盛んになったのであろう。先祖の霊がなつかしい各家に帰るとされ、飢え苦しむ精霊(餓鬼)に供養し、自家の先祖と共に成仏できるよう、僧侶に報恩感謝のささげをする行事として、こんにちまで続いている。

〔新盆〕
 故人の忌が明けた後、最初にめぐってくるお盆を「新盆」といい、ひときわ丁寧に供養する。近親者から寄せられる盆提灯を美しく飾り、精霊棚をしつらえ、白だんごを毎日取り替え、打菓子なども白色で揃えるなど、まだ別れてより日の浅い遺族がさびしさを慰めるためにも大切なひとときであろう。

〔お参り〕
 盆供養の期間は、親しい人々でたがいにお参りし合う習わしがある。訪問客へのお引き物の用意をしておく。この際、表書きは一般に「志」とするか、「新盆供養」「盆供養」「粗供養」などとする。


(*1)東京では一般に7月13〜16日に供養するが、全国的にはひと月遅れの8月13〜16日に行う。
(関連図表=なし)
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<参考文献>ご法要のしおり」山長本店広報室編/1999
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No.001_03 ななくさ
七草
1月7日
[歳時/冬]
[民俗風習]
[食文化]
   毎年1月7日の朝、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの七種ないし数種の若菜を摘み入れたおかゆを炊き、無病息災を念じる習俗で、秋の七草との対比で「春の七草」と呼ばれることもある。
 この風習は、江戸時代から民間に広がった。かつては「七草ばやし」といって、“♪七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に…”などと唱えながら、にぎやかにまな板の上で七草をたたき、白がゆにさっと散らしたという。
 また、七草を入れた湯に爪を浸し、爪の切り始めをする風雅な習慣もある。
(関連図表=なし)
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No.001_04 かんもち
寒餅
1月寒の入り〜2月節分
[歳時/冬]
[食文化]
   「寒」の期間中につく餅のこと。1月5日頃の寒の入り(小寒)に始まり、1月20日頃の大寒を経て、寒の明ける2月3日頃(節分)までは、一年のうちで最も気温が低く、また水質も餅の製造に適しているので、味よく保存がきくとして、重宝される。 (関連図表=なし)
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No.001_05 うそかえ
鷽替
1月24日・25日
[歳時/冬]
[民俗風習]
[亀戸]
   鷽替神事は、菅原道真公を祀った全国各地の天満宮で行われる新年の祭事である。
 とりわけ正月7日の太宰府天満宮(福岡)と、同24日・25日の亀戸天神社(東京)がよく知られている。
 鷽(ウソドリ)は、寒い地方に生息するスズメに似たアトリ科の美しい鳥のこと。この日、木彫りのウソドリを神前に持ち寄って交換すると、「今までの悪しきもウソとなり、吉に鳥かえん」と幸運を招く行事として善男善女でにぎわう。
 亀戸天神の神職の手により一刀彫りされた縁起物のウソは、木の枝にとまった姿を模している。また、この彫刻の技術は江東区の無形文化財に指定されている。参詣の人々はこの日、前年買ったウソを社殿に奉納し、新しいウソを求めて帰る。天神様は学問の神様、多くの受験生たちもウソを求めて集まる。
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No.001_06 せつぶん
節分
2月3日
[歳時/冬]
[民俗風習]
[亀戸]
   文字通り「季節の分かれめ」を意味し、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことで年4回あるが、春の訪れを告げる二月の豆まきが民俗行事として定着している。
 平安時代に諸国で疫病流行の折、中国の風習にならい、宮中では大みそかの夜、魔よけに行った「追儺(ついな)の儀」と称して、豆まきが行われた。この風習が江戸時代以降、民間にも広がった。
 大晦日の行事が、なぜ春の訪れを告げるこの日に行われるのか。実は、大寒・立春・雨水・啓蟄と続く「二十四節気」は中国暦を移したものだが、この暦では立春から始まる春節こそ「正月節」と呼ばれ、一年のスタート「新春」なのである。よって、2月3日の節分の夜は、その新春を待ち迎えるとき、すなわち大みそかにあたる。

 この日、全国の寺社ではその年の干支生まれの男女(年男・年女)が、また、家庭ではその家の主が、「福は内、鬼は外」と唱えながら、炒り大豆をまく。
 亀戸天神社では、古式ゆかしく「追儺」が行なわれる。不動尊で有名な千葉・成田山新勝寺では、「福は内」だけを唱え、「鬼は外」を言わないが、これは「仏の慈悲の前に鬼はいない」ためだという。また、全国から追われた鬼を救うのが、奈良の吉野蔵王堂の「鬼火のまつり」で、ここでは「福は内、鬼も内」と唱える。

〔家庭の節分行事〕
 各家庭では、イワシの頭をヒイラギの小枝に刺し(地方によってはニンニクや玉ネギ)、戸口に飾って鬼を締め出す。その年の干支生まれや厄年にあたる人や、一家の主は、神棚に供えられた炒り豆をまく。玄関から始め、各部屋の出入り口ごとに「鬼は外、福は内」と二回ずつ繰り返す。まき終わったら、福が逃げないよう、鬼が再び入ってこないよう、すぐに戸締まりをする。豆まきの後に、年齢と同じ数だけ豆を食べると、その年は無事でいられると信じられている。
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No.001_07 はりくよう
針供養
2月8日
[歳時/春]
[民俗風習]
   前年に使用した針を供養して感謝し、裁縫技術の上達を願う風習。この日は針仕事を休み、折れ曲がった針やさびた釘を集めて、供養を行う近くの寺社に納め、豆腐・コンニャク・大根などに刺して感謝をあらわす。東京・浅草寺境内の淡島堂や和歌山の淡島神社での針供養が有名。
 なお、「事納め」として関西や九州では12月8日に針供養をし、京都の法輪寺では「針供養大法会」が営まれる。
 家庭では、この日に豆腐・コンニャク・大根などを食べる風習がある。かつては、針仕事は家事の主要な部分だったので、各家庭で盛んに行われた。しかし、大量消費社会となった今日では、家庭行事としてはすたれ、もっぱら和裁・洋裁学校などでのみ見受けられる風習となった。
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No.001_08 はつうま・まつり
初午まつり
2月最初の午の日
[歳時/春]
[民俗風習]
   立春を過ぎて、最初の午(うま)の日に行われる、稲荷神を祀る神社の年の始めの祭事。参詣者は豊かな収穫や商売の繁盛を祈願する。
 711(和銅4)年2月の初午の日に、伊奈利山に降りてきた神を、元明天皇が京都・伏見稲荷大社として祭ったのが始まり。
 その名の通り、もともと「稲荷」は農事の神で、各地の農村には、子どもたちがキツネのお面をかぶって、連なった赤い鳥居の下を太鼓を打ちながらくぐったり、一本足の馬にまたがって遊ぶ風習があった。キツネは稲荷神の使者とされている。
 江戸時代に隆盛を極めた老中、田沼意次が、その邸内に稲荷を祭っていた。これが評判となり、開運や商売繁盛の御利益信心を稲荷神が集め、江戸市中で大流行したという。
 自邸に稲荷を祭っているときには、神前に灯明を上げ、御神酒を供え、使者であるキツネの好物とされる油揚げやいなり寿司を奉納する。各家庭でも初午の食卓にいなり寿司や油揚げが並ぶほか、おだんごや御赤飯をいただく習わしが各地にある。
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No.001_09 せい・ばれんたいん・でー
聖バレンタイン・デー
2月14日
[歳時/春]
[民俗風習]
   この日は、ローマ皇帝の迫害を受けた司祭、聖バレンティノ(英語名・バレンタイン)の殉教記念日。
 伝説によれば、時のローマ皇帝が兵士の士気を高めるために兵役中の妻帯を禁じた。しかし、「神が合わせたものを人が引き離すことはできない」との聖書の言葉を重んじて、聖バレンティノは愛し合う若い兵士と恋人との結婚式を執り行った。これが皇帝の怒りに触れ、投獄された。獄中の聖バレンティノは、牢の窓辺にあったスミレの葉に添えた手紙を親友に書き送り、「それでもなお、人が愛し合うことは何よりも尊い」と説いた。
 このエピソードから、聖バレンティノは「愛の保護者」として、人々の尊敬を集めることとなった。こうして2月14日は、愛する人へのプレゼントとともに真実の愛を告白する日として、今日まで受け継がれている。
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No.001-10 なたね・ごくう/こうばいでん・れいさい
菜種御供/紅梅殿例祭
2月25日
[歳時/春]
[民俗風習]
[亀戸]
   春を告げる菜の種を供えて無病息災を祈るのが、菜種御供である。この時期、亀戸天神境内の梅が見ごろであり、紅梅殿例祭が行われる。
 かつて菅原道真公の都の住まいには、美しい紅梅があった。福岡に左遷の身の菅公が名残惜しく思われ、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」(東の風が吹くのなら香りを発しておくれ梅の花よ、主人がいないからといって決して春の訪れを忘れるのではないぞ)と詠まれた。その思いに都の梅が感じ入り、一夜にして福岡の主人の居所に飛び移ったといわれ、そのため「飛梅」と呼ばれる。
 この福岡・太宰府天満宮の御神木「飛梅」を勧請して、創建まもない亀戸天神社に祭ったのが紅梅殿である。
 かつて亀戸の地は、臥龍梅と呼ばれる名木や、錦絵に描かれた「梅屋敷」など、梅の名所だったが、今は昔のこと。1945(昭和20)年3月の
東京大空襲で亀戸一帯は焼け野原となり、天神社もほとんど焼き尽くされ、現在の境内の梅や藤は戦後あらたに植えられた。
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