短編小説選

ピアニシモ


 「何かお飲みになります?」
 浩一はお茶でいいと言い、少し間を置いて、「今日は早く帰らなくてはならないから」と付け足した。紗江は、浩一とその妻子の団らんを思い浮かべた。そういえば、今日は浩一の娘の五歳の誕生日なんだわ。
 紗江は静かに湯を沸かす。小さなワンルームのミニキッチンでありながら、浩一にはその姿が、見事な庭をしつらえた茶室での所作のようにすら映った。紗江の美しさを思う。ふと目線を移した浩一は、部屋の隅に積み上げられたコンパクト・ディスクの中から一枚を選び、やや控えめの音量でスタートさせた。「あら、シューマンのアラベスク、ふさわしい選曲だわ」キッチンの紗江のつぶやきは、しかし浩一の耳には届かなかった。
 用意はできた。紗江がお盆を持ってクルリとこちらを向き、「お待たせしました」とテーブルに着く。温かい湯呑みを浩一の前に置き、大納言の鹿の子を一つ添えた。巨匠ホロヴィッツの奏でるしなやかなシューマンに埋もれてしまいたい沈黙が、二人の間にゆるやかに漂っている。紗江は目の前の浩一をじっと見つめ、やや濃く入れたお茶をひとくち、ゆっくりといただく。
 「あたしね、ようやくひとりで生きていく決心がついたの」
 ピアノが数小節の速度のあるテンポを打ちこんだ後、なだらかな丘を下るようにまた収まっていく。答える代わりに、浩一は改めて紗江の美しさに見入った。次に、その目線を穏やかに伏せまばたいてから、黒文字を取り、鹿の子を口に運ぶ。大納言の黒のつややかさ、丸さ、堅さ。そして、内なるこしあんのしとやかでさりげない甘さ。その舌当たりを確かめたとき、浩一にはようやく紗江の美しさのわけが理解できたような気がした。
 「きみは美しいよ。これからも美しく生きていってほしい、ぼくはそれを願っている」
 浩一はお茶を飲み干し、やおら立ち上がった。玄関先で浩一はもう一度だけ紗江を強く抱きしめ、そして振り返らずに去っていった。その後ろ姿を見送る紗江を、ホロヴィッツの名演と秋の夜風がやさしく包みこんだ。

山長味ごよみ」1996年10月号


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