短編小説選

月見


 人々が落ち着いた装いになってくると秋である。都心のデパートで案内嬢を務める香織は、職業柄、季節には敏感だ。
 「右手奥のエレベーターをご利用になりまして、十一階が美術展の会場でございます」
 香織はその初老の夫婦をしばらく見送った。(母が生きていたら、両親そろって美術展でも見に来ただろうか)と、香織に少しさびしい思いがよぎる。香織の母は五年前、香織が十九のとき他界した。その後、香織は父と二人で暮らしたのだが、大学卒業後に父と離れて上京し、憧れのデパートに就職した。
 その夜、父のことがしきりに気になった。このところ、父への電話がためらわれるのは、職場の先輩・正志との結婚を、そろそろ打ち明けなくては、と感じるからだ。だが、父の胸中を思うと、それがなんとなく一日延ばしとなってしまうのである。
 しかし、数日後の休日、香織は郷里への列車に乗っていた。やがて田園地帯が広がって、線路が大きく曲がるその先の鉄橋をまたげば、もう香織の生まれ育った町だ。幼い頃によく遊んた川土手をススキが覆い尽くして、川下への風になびいている。母と二人、あのススキを採りにいったものだ。団子とともにそれを飾ったささやかなお月見を、父が何より喜んでいたのを思い出す。
 駅からの道のりは重かったが、正志と結婚したいという気持ちが、今日の香織を歩かせた。歩き着いたなつかしい生家を前にして、香織はいちど深呼吸をした。丹念に整えられた枝々にやさしく「おかえり」と迎えられ、門をくぐった香織だったが、思わず「えっ」と立ちすくみ、縁側を見つめた。
 母亡き後はあろうはずのなかったススキや団子や里芋が、その縁側に飾られていたのである。ススキの生け方も団子の大きさも、亡き母のそれとはまるで異なるが、それは父の庭の趣きとしては見事に調和しているではないか。香織は、正視したくないが、それを取り去るにはあまりに惜しいような、不思議な感覚に襲われていた。
 やがて、香織は気配を感じて玄関を向き直すと、穏やかな笑みをたたえた見知らぬ女性が、照れくさそうな父とともにそこに立っていた。香織は二人を見つめ、いよいよ呆然と立ち尽くしていたが、しだいに湧き上がってくる深い安堵を覚えて、二人にやさしくほほえみを返した。
 そろそろ暮れなじんできた空には、それぞれの新しい門出を祝すかのように、十五夜の月が大きく丸くのぼり始めていた。

山長味ごよみ」1993年9月号


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