短編小説選

湖畔の朝


 「ただいま」
 高校2年になる美穂が、今日はいやに浮かぬ顔で帰宅した。食堂にポツンと腰かけたきり、夕食を支度する京子をほおづえで眺めている。それを背中に感じた京子が、
 「今日は暑かったものね、疲れたでしょ」
と声をかけた。美穂は、ふぅん、と答えにならないため息をついた。それが暑さのせいではないと伝わってしまうのは、母娘の絆であり、女の直感であろうか。

 あの日、京子を乗せた電車は流れるように郊外へと走った。
 「これで終わりにしたいと思う」
 当時付き合っていた大学の一つ年上の先輩から、突如切り出された別れ。理由など聞く気になれなかった。あの季節にもう決して戻れない現実を言い渡されたのだ。京子はひたすら都会から離れたかった。
 飛び込みで来た京子に対する宿の愛想のなさが、しかし彼女にはむしろ救いだった。風呂につかり、独り泣いた。あの一言におびえ続けたいくつもの夜を取り返すように眠った。
 とはいえ、翌朝早くに目が覚めてしまったので、京子は宿近くの山道を散策することにした。夜の湿りを含んだ土の感触が快い。サクサクと草の音にいつしか遊んでいた彼女は、 目前に急に切り開けた風景にハッとして立ちすくんだ。
 静かに広がった湖の水面が、朝の光にキラキラさざめいている。木々の間に間には、薄い藍を帯びた霧が深く立ち込める。あぁ。時間を忘れ、京子はこの絶景と向い合った。やがて日が差すにつれて消えてゆく霧とともに、彼女の中にあったわだかまりがしだいに融けていくようだった。

 京子は、回顧に浸って包丁の手を止めていることに気付いた。美穂のうつろな眼差しの理由が痛いほどわかってきた。(もうそんな年頃なのね)京子は、ほどよく冷えた〈山霧〉を器に入れて、美穂の前にさし置いた。
 「お母さんはね、この葛のお菓子を見ると、いつもある旅のことを思い出すのよ‥‥‥」

山長味ごよみ」1993年6月号


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