短編小説選
とりとめもない朝
和枝は、いつになく寝坊してしまった。それにしても気持ちのよい朝である。身支度を整え、階下の居間へ降りていく。いつものように、息子夫婦に「おはよう」と声をかけながら‥‥‥。
「いいかげんにしてよっ」 と、嫁の睦美の叫びが聞こえた。一瞬、和枝は自分の寝坊のことかと思ったが、睦美の怒りの目には、夫の新二郎しか映ってはいないようである。妻のにらみに耐え兼ねたのか、新二郎もとうとう声を荒げた。 「いいじゃないか、これぐらいのこと」 「冗談じゃないわよ」 タイミングをはかっていた和枝は、ここぞとばかり、ともかくも割って入っていった。 「まあ二人とも、朝からいったい、どうしたって言うの」 聞けば、新二郎が睦美に内緒でゴルフクラブを衝動買いしたとかなんとか。和枝は適当になだめておいて、自分はそそくさと朝御飯を始めてしまった。衝突の気概をそられた二人は、黙ってにらみ合いを始めたらしい。 和枝は「せっかく壮快な朝だったのに」とぶつぶつ言いながら、せっせと箸を運んでいる。 (あぁ、こんなの犬も食わないわよね、あなた) 和枝が語りかけたのは、居間の仏壇に入った亡夫の写真である。 (あたしたち、もうしたくてもケンカできないのよねえ) と、今度は箸をおいてため息を一つ。居間の二人に目をやる。 (そろそろ、あたしの出番かしらね、あなた) 食べたような食べないような食事を片付ける。「さて」とわざと声に出してからお茶を入れ、それを持って居間に座った。そこから仏壇に手を伸ばし、供物の柏餅を下げてくる。和枝は何も言わず静かに、息子夫婦にそれを差し出した。 「あら、これおいしいわ」 やはり、睦美が先にひっかかった。その移り身の早さがなんだかおかしく思えたのか、新二郎も笑い出した。つられて睦美も和枝も大笑い。「うまいうまい」と三人で競うようにほおばり始めた頃合い、和枝は後ろを振り向き、仏壇にも湯呑みをそっと置いた。 (あなた、どうもありがとう) 写真が少しほほえんだような気がした。
「山長味ごよみ」1993年4月号
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©山長本店広報室 1993,2001
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