手記:二度のキリマンジャロ登頂と氷河、そしてレリーフ
Report of Kilimanjaro Climbing, Glacier, and Relief.
アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(標高5895m)は、アーネスト・ヘミングウェイの小説『キリマンジャロの雪』で世界的にあまねく知られており、そして岳人ならば七大陸最高峰の一つとして知らぬ人はいないほど有名な山だ。南緯3度・東経37度と、ほぼ赤道直下にありながら、頂上部に白く輝く氷河をまとい、広大なサバンナからどっしりと聳え立つその雄姿は、岳人のみならず、多くの人々の憧れの対象となってきた。私は、縁があって幸いにも、1988年、2008年と二度にわたってキリマンジャロの最高点を極めることができた。 最初の登頂は1988年で、私が社会人となって二年目の冬であった。かねてから五大陸最高峰(昔は七大陸ではなく五大陸であった)の一つをぜひ登ってみたいと思っていて、欧州大陸最高峰のエルブルース(標高5642m)か、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロか、どちらを目指すかかなり迷ったが、最終的に過去からの思い入れが深いキリマンジャロを選択した。勤務先のデンソーで山岳部に入部してから、夏山合宿:笠ヶ岳〜赤木沢沢登り〜赤牛岳、冬山合宿:行者小屋〜横岳〜蓼科山縦走、春山合宿:越百山〜空木岳〜木曽駒ケ岳縦走など、長期連休の合宿には全て参加していたものの、普段は大したトレーニングもせずに、一般の山岳ツアーにてキリマンジャロ登山に挑む。 山麓のマラングゲートを出発してから3日間かけて、熱帯雨林のジャングル、高山植物が目を楽しませる草原地帯、何もない荒れた砂礫地帯を抜けて、特に高山病の症状も出ずに、難なく最後の山小屋キボハット4700mに到着。1988年元旦の頂上アタック日は、高山病による猛烈な頭痛の中、キボハットを午前1時に出発。ここからの登りは、それまでのハイキング気分の緩やかな登りとは一変して、暗闇の中、いつ果てるとも知れぬ急登となる。平地の半分の気圧の中をあえぎ登り、途中で初日の出を迎え、ようやくお鉢の縁に相当するギルマンズポイント5685mに辿り着く。ここまで到達すれば、一応は登頂証明書がもらえる。すぐ向こうで東部氷河が大迫力で迫り、朝日に輝いて美しい。15名の参加者のうち12名が高山病のため最高点を断念して、ここから引き返した。
3歩進んでは深呼吸、また3歩進んでは深呼吸の繰返し、最高点までの標高差200mの緩斜面を二時間もかけて、ようやく最高点のウフルピークへ。ガイドのジェームズさんと交わした固い握手、感激の涙、青空にはためくタンザニアの国旗、タンザニア初代大統領のニエレレの言葉を刻んだレリーフ(右の写真で国旗の右側にある)、などは覚えているが、高山病のため記憶があいまいで、どうやって頂上から3720mのホロンボハットまで下山したのか、よく覚えていない。気が付いたら次の日の朝で、12時間ぶっ通しの眠りから爽快に目覚めた。小屋の前で日の出を拝み、モルゲンロートに映えるキリマンジャロの山肌を眺めながら、前日の苦闘を思い出していた。 次の登頂は、偶然にも二十年後という切りのいい2008年になった。学生時代に所属した名古屋大学ワンダーフォーゲル部と同じく2009年に五十周年を迎えるデンソー山岳部の記念登山として、キリマンジャロ遠征が計画された。最高齢70才のOB5名と現役メーバー10名の混成パーティーであるが、日頃の山行の他、三度にわたる富士登山トレーニング、各自が自主的に実施した低酸素トレーニングによって、最初に私が登った時より遥かに高所順応の下地ができていたと思う。 07年末からの暴動のために、警戒が物々しいケニアのナイロビから入国、一歩間違えると危うく暴動に巻き込まれるところだったらしい。日本から同行したツアーガイドのKさんは、ヒマラヤのK2登山にも参加したことがあるツワモノで、高所順応に対するアドバイスも的確だ。高山病を防ぐというよりも、人体の防衛反応を利用して、いかに上手に高山病にかかるかが、高所順応のポイントらしい。実は、標高2000mあたりから誰でも高所反応は起きており、それを敏感に感じ取って、早目に対処するのがコツである。水分を大量に摂取する、腹式呼吸をする、休憩中も身体を動かす、等など。 アタック日は真っ暗闇の快晴、背後に輝く南十字星と天頂のオリオンに見守られ、午前0時にキボハットを出発。5300m地点のハンスメイヤー洞穴で、現役隊は足取りの重いOB隊と別れて先に頂上を目指す。高山病で顔がむくんだり、嘔吐しながら登るメンバーが多い中で、私は足取りこそ多少重いものの快調で、高所順応がうまくいったようである。高山病の特効薬ダイアモックスのお世話になることもなく、7時過ぎにギルマンズポイント着、ここから見る東部氷河は、何と二十年前の1/3ぐらいに規模が縮小しており、小さくなってしまったその姿に、私は大きな衝撃を受けた。
キリマンジャロ氷河の縮小については、いわゆる地球温暖化の他、降水量の減少、赤道直下の強い太陽放射による昇華、火山活動による地熱(キリマンジャロは火山)など、様々な説がある。中でも、インスブルック大学のカーザー教授による最近の研究である、降水量の減少と乾燥による昇華説が有力となっている。キリマンジャロ氷河の縮小は19世紀末から始まっており、キリマンジャロ氷河縮小の推移は20世紀半ばから加速度的に増加する人為的地球温暖化のトレンドと合っていないというのが、その論拠である。 ところで、地球温暖化についてであるが、政治色の強いIPCC(気候変動についての政府間パネル)の報告書には多くの疑念があり、私が所属している気象予報士会(07年11月入会)でも、人為的温暖化説に同意する人は半数ぐらいである。IPCCのよりどころとなっている気候モデルは現在未解明の現象は取り込まれておらず、CO2と温暖化の相関データさえ様々な反論を呼んでいる。加速度的な温暖化のデータ自体が、実は怪しい。色々な文献を読むと、どうも、近年の温暖化は既に1800年頃から起きているらしく、人為的影響が顕著になる20世紀半ばから加速度的に温暖化しているという証拠は非常に乏しいようである。 私見であるが、キリマンジャロ氷河の縮小は、1800年頃からの気候変動としてのグローバルな温暖化の影響に加えて、熱帯地方特有の現象(太陽放射による昇華)、またアフリカ東部における局地気象(乾燥、降水量減少)、火山活動などの複合要因が原因ではないかと思う。尚、世間一般に報道されているニュースは、言論の自由の名の下で隠されたフィルタが掛けられており、マスコミは記事にならないことや不都合な事象は報道しないので、鵜呑みにしないように注意が必要である。真実を知りたければ、自分の目で見た事実と、自分の手で調べた原典と照合して、真偽を判断したほうがよい。 現に、今回ギルマンズポイントからウフルピークに向かう途中で、年間の降水量がほとんどない頂上付近で近年稀な大雪に見舞われ登頂を断念したパーティーが続出した2006年末の積雪が、一年経ってもいまだにルート上に残っているのを目撃した。この大雪のメカニズムも、よく分かっていないが、日本の猛暑と関係があるインド洋ダイポールモード現象(IOD)が、アフリカ東部の降水とも関係があると言われている。(このように離れた地域に影響を及ぼす気象現象を、テレコネクションという。エルニーニョ現象も、その一つの例である。)実際、06年11月には、アフリカ東部は大雨による災害に見舞われている。私自身は、06年の年末にマダガスカル島に停滞していたサイクロンが、インド洋からアフリカ東部に湿った空気を運び込み、普段カラカラに乾燥している上空まで飽和状態になったため、キリマンジャロに大雪が降ったと考えている。いずれにしても、キリマンジャロ氷河を考察する上でも、地球規模の気候変動から局所気象までの影響を考慮せねばないということであり、事実が単純ではないという良い例と思われる。
午前9時半、前回とは違って鮮明な記憶を心に刻みながら、二十年ぶり二度目のアフリカ大陸最高点に到着。頂上のすぐ下の南部氷河、ロイシュ火口の向こうに見える北部氷河も、東部氷河ほどではないが、やはり小さくなっている。風にはためいていたタンザニア国旗に代って、『ウフルピーク・アフリカ最高点・世界で最も高い独立峰・世界最大の火山の一つ』と書かれた大きな標識が抜けるような青空に屹立している。結局、現役10名はウフルピーク、OB5名もギルマンズポイントと、全員登頂達成である。 頂上の片隅にちっぽけな四角い金属の箱があり、もしやと思ってフタを開けてみると、何とその中には二十年前と変わらぬタンザニア初代大統領ニエレレの言葉を刻んだレリーフが現れた。その言葉は、私が前回キリマンジャロに登る動機の一つとなった名言であり、ここに原文とその和訳を記す。 WE, THE PEOPLE OF TANGANYIKA, WOULD LIKE 『私たちタンガニーカ人民は、キリマンジャロの頂に灯火をかかげよう。その光が、はるか国境を越えて、絶望の支配した地に希望を、憎悪のはびこった地に友愛を、そしてかつて恥辱だけが残された地に尊厳を、呼び起こすように』 長い歳月を経て、変わるものと変わらぬものがある。フタを開けなければ誰にもその存在を知れぬまま、文字通り二十年の風雪に耐えてこのレリーフが残っていたことは、私にとってこの上ない喜びであった。余談であるが、この時の私がジャケットの下に着ていた山シャツも学生時代にワンダーフォーゲル部に入部した時に買ったシロモノなので、これまた二十七年もの歳月に耐えて持ち主に装着されて、二度にわたりキリマンジャロに登っている。(もっとも肝心の持ち主の方は、かなりヨレてきているが…) 三度目があるかどうかは分からないが、もし許されるならば更に二十年後の2028年に、愛用の山シャツと共に、もう一度キリマンジャロに登って頂上の氷河とレリーフの行方を見届けてみたい。それが今の私の心からの願いである。
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