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大曽根は北区?東区? 2回も分断に遭った大曽根、北区と東区にまたがる10の大曽根
平成16年11月に町名変更が実施される前は、大曽根が付く町名は7つ。ところが東大曽根町本通、東大曽根町中、大曽根は両区にまたがっているために全部で10になってしまう。NTTインターネットタウンページ付属の地図やヤフーのMapionで見ると10あった。大曽根について詳しく研究するとしたら、東区に関する本と北区に関する本を用意しなければならない。
10の大曽根は下記の通り。
北区東大曽根町上・北区東大曽根町本通・北区大曽根町中・北区大曽根
東区大曽根・東区東大曽根町・東区東大曽根町本通・東区東大曽根町中
・東区東大曽根町東・東区東大曽根町南

大曽根の分断のいきさつはこうである。明治13年に大曽根村南部(徳川園周辺か?)が村から分離し大曽根町となって、名古屋区に編入。明治22年に名古屋区が名古屋市に、その時、残された大曽根村が付近の五ヶ村と合併し六郷村に。明治41年、東区制定。大正11年、六郷村が名古屋市東区に編入される。昭和19年、北区制定。そして昭和21年、六郷学区(現在大曽根の北区の部分)が北区に編入されたので大曽根が北区と東区に分断されたことになり、今日に至っている。
乗換えに時間がかかる大曽根駅

JR大曽根駅は名鉄大曽根駅と1ホーム分南に位置がずれている(距離でいうと200メートル以上離れている)。昭和46年に地下鉄名城線が大曽根に乗り入れる以前は国鉄(当時)大曽根駅改札は南口しかなく乗り換えに相当歩く必要があった。雨の時はなおさら大変だったと思う。北口がある現在でもJRから名鉄または地下鉄に乗り換える場合時間がかかる。JRから名鉄に乗り換えるルートを述べよう。中央線電車降車後北口へ続く通路を(長々と)歩き改札口を出、更に高架下のアスティ大曽根の中を通り、ファミマの前を曲がり、名鉄大曽根駅入口の階段を上り改札口を通り階段を上るというルートだ。計ってみたら3分位も要した。なぜJR大曽根駅が南にずれているのかは不明である。新宿のJRから西武新宿線に乗り換える時を思い出してしまう。(地上、地下のルートいずれも遠回り。都営地下鉄新宿線新宿駅から西武新宿に乗り換える場合はもっとひどい。) また、新宿のJRのホームは8本あるから乗り換えに時間がかかるのは当然だが、大曽根はJR、名鉄、地下鉄それぞれ1本ずつ。名古屋市は総合駅として一体化するようJRと名鉄に働きかけているが、多額の工事費がかかるため実現化は程遠い。東洋経済オンラインH29.5.17でもJRから地下鉄への乗り換え距離が中京圏で最も長いと記載されていた。

古い家並み
下街道・旧大曽根村の中心(現在のオズモール西の入口付近)は太平洋戦争の空襲や道路拡幅で、昔の面影は現在ない。(写真左から)瀬戸街道旧道沿い・旧矢田村の中心だった所、大曽根交差点からR19を南へ1キロ程行った所の赤塚の裏通り(徳川1丁目・現在はない)、大曽根交差点北から北東に延び平安2交差点へ行く道(元山田海道古道)に行けば長屋などがある古い家並みに出会える。空襲から免れた所だ。
写真左はR19(下街道)に沿った旧山田村の中心のわずかに残っていた家並み。R19の拡幅工事が始まる前はもっと多く古い家・商店が並んでいた。しかし残されていた家も平成15年に取り壊されて現在はない。写真右は大曽根交差点北のタナカの北角から十州楼へ続く道にある古い家並み。この辺りは昔は遊郭の街だったという。遊郭がある程大曽根は栄えていたのである。ここも現在は新築されて当時の面影はない。
新しく道ができたり廃道になったり
昭和以降R19や環状線が整備され、戦後R19大曽根交差点以南は片側4〜5車線(一部6車線の所もある)という広い道路になった。
古くは、四ツ家(現在のオズモール西の入り口付近)で下街道(善光寺街道)から信州飯田街道(瀬戸街道)が分岐していたのが、後に新しい道(大曽根駅西口から山田へ続く道)ができたことにより、分岐点は東に移った。天保12年(1841年)の図では分岐点は現在と同じ所だ。旧アーケード商店街は、信州飯田街道だったのが下街道となったことになる。かと思えばその時以降残された元山田海道古道(大曽根交差点の北から北東へ延びる道)の環状線以北が再開発が始まると拡幅、六郷小西に造られた道とつながり、R19が東大曽根交差点経由だったのがその道に移った。
また、新出来から西口に来る道路を整備、その後千種へ延長。そのため、路線バスのルートは大曽根駅南口前の南北道からその道路に変更。西口では駅前広場や雨水調整池工事の期間中、工事現場の西に移ったり東に移ったりの繰り返しだった。
東口の矢田町では区画整理が行われ、瀬戸街道旧道の一部などが廃道。平成8年頃、名鉄大曽根駅とJR大曽根駅との間に線路高架をくぐる道が新たにできた。三菱電機の南、JR大曽根駅南口からナゴヤドームへ行く道も広がった。
瀬戸線の路線も開通して以来ルートが何回か変更されている。昭和初期の地図によれば大曽根以西は現在よりも北を走っていた。オズモール商店街の一筋南の道である。東の方も高架になる前は現在より南に線路があった。住居表示を実施する前の東区矢田町と山田東町との境界線が旧線路の名残である。
大曽根は古道と新道が共存、そして廃道あり、斜めの道あればまっすぐの道あり、三叉路あり五叉路あり、ソラで地図を描くのは難しい。
十州楼・すずらん南座
十州楼はふとんタナカ北の角を曲りまっすぐ行った所にあり、純和風の数奇屋造りの建物で、京都・万福寺の普茶料理(中国式の精進料理)のほか、鍋物を日本庭園を見ながら食することができた。現在は住宅が建ち並んでいる。
 北区東長田町4
鈴蘭南座は閑静な住宅地の真中、その名の通りすずらん通りの南にある。銭湯にしては派手、よく見ると小劇場。こういった小劇場・演芸場が昔は大曽根にもっとあり、相当賑わっていたことを思わせた。ここも現在は一般住宅。
 北区大曽根1−15
名鉄瀬戸線及び名鉄大曽根駅、昔の計画
(プロジェクト紀行・地下鉄が変えた街、サイト名不明で瀬戸線・名城線・ゆとりーと・横浜市港北区や埼玉県八潮市等他地域の大曽根・人名の大曽根混在、ウィキペディアの名鉄小牧線と瀬戸線と地下鉄名城線より)上飯田止まりでその先平安通まで地下鉄上飯田線と相互乗り入れしている名鉄小牧線はかつては大曽根乗り入れの計画があり(最初の特許申請は明治40年、大正3年不許可、再び策定されたのは昭和22年)、名鉄大曽根駅は瀬戸線(明治39年瀬戸−矢田間だったのが大曽根まで延伸、明治44年堀川まで延伸、昭和53年栄町までの乗り入れに変更)と小牧線、合計2面で上り下りに分ける方式にする予定であった。しかしのちに計画は白紙。このため全線開通の昭和6年からの名称・名鉄大曽根線は昭和23年に小牧線に改称された。その他、名鉄大曽根線(小牧線)が開業する前に押切町(西区)から大曽根経由で坂下町(春日井市か?)へ走る城北電気鉄道の計画、名鉄豊田線開通前は拳母(ころも、現豊田市)-大曽根間の新三河鉄道の計画があった。また、昭和25年、名鉄瀬戸線は地下鉄名城線(昭和46年の市役所−大曽根間開通後の路線とずれがある)と相互乗り入れさせる計画も立てられた。しかし運輸省や建設省は認めず昭和40年頃までには計画は頓挫、名城線は計画より北、黒川経由で走ることとなり、結局昭和53年、瀬戸線単独で栄町までの乗り入れとなった。
 
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