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新宿西口の高層ビル群は有名で南口にも高層ビル建設計画があるという。大曽根も高層ビル群やデパートがあって常に人でいっぱいだったら、大曽根と新宿は本当にそっくりだ。いろんな面で、両者を比較してみる。 |
下の地図の青丸(大曽根:たからや・四君子、新宿:小松・ふもと・ひさご・養老乃瀧・らくがき等)の焼鳥屋は、共に西口に、しかも駅北西に位置し、そばに東西に走って線路高架下をくぐる大通りがある。このことから大曽根の焼き鳥屋付近と新宿の焼き鳥屋付近の道を関連づけた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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現在、大曽根には焼鳥・四君子はなく、その隣のたからやも移転したので、焼き鳥屋を中心とした見方では、大曽根と新宿との類似は過去のことだとつくづく感じる。しかし、駅北のガードは両者とも現存しているという点では類似はなおも現役だ。そのため今度はそのガード北東に位置する大曽根の矢田町と新宿の歌舞伎町の道路の走り方を比較してみた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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過去、本当に大曽根にもホテルやデパートの進出計画があったようだが、ご破算になってしまった(HP・東海掲示板や付近の居酒屋経営者の話による)。西武不動産が西口一帯を |
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地下鉄名城線・大曽根駅の地下道は、新宿の地下鉄丸の内線の上を通る地下道(メトロプロムナード)に相当する。双方とも地下鉄の上にあり、丸い柱があるという共通点がある。 |
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大曽根西口は、JR・名鉄瀬戸線駅から地上部を通って両商店街へ行くとしたら広場両端の横断歩道(信号あり)へ遠回りしなければならない。歩行距離:北の横断歩道経由・約200〜250m、南の横断歩道経由・約300m(遠回りせず直行できたら約150m)。両商店街へ不便なく行けるために、広場改造してかつてあったオゾンアベニュー前の横断歩道を復活してもらうか、名鉄瀬戸線の2階改札口から直接両商店街へ行けるよう広場を2層化してもらうようにしたらどうか。ゆとりーとラインのナゴヤドーム前矢田駅からナゴヤドームやイオンまでのペデストリアンデッキがその例だ。愛知県内で発見したJR駅前広場を2層化している所は豊橋と勝川。新宿では昭和60年頃、小田急百貨店2F沿いに通路が設けられれ信号待ちなしでビックカメラ等に行くことができる(この通路は南へ、京王百貨店まで延ばすというが凍結状態)。地下部をあわせば3層構造ということになる。更に地下駐車場を併せれば4層構造だ。大曽根も地下1階が地下街、地下2階が地下駐車場だから、地上部2層を併せれば4層構造になり、更に地下3階の雨水調整池をあわせれば5層構造ということになる。しかし、そのためには何億円という多額な費用がかかるので遠い先か、いや夢物語となってしまうかもしれない。
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新宿には(正式には渋谷区代々木)、JR東日本本社があり、大曽根にも本社ではないがJR東海大曽根ビルが平成18年に建ったという共通点ができた。 |
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A新宿駅東口駅前のスクランブル交差点、それらしく斜めの横断歩道はちゃんとある。大曽根4丁目交差点は歩行者用信号が全部青でも「斜め横断禁止」というのは納得いかない。 B新しく対応に加わるとみられるのは、名古屋市営地下鉄上飯田線と東京メトロ副都心線。渋谷と池袋を結び新宿駅前は通らず新宿三丁目経由の副都心線は東武東上線と西武池袋線と相互乗り入れをしていて、東急東横線も2012年に参入する予定がある。同線は急行があり、それに乗車すると地下鉄内の駅を通過するため異様に感じる。上飯田線は、現在上飯田・平安通間のみの営業運転だが名鉄小牧線と相互乗り入れをしている。延伸すれば大曽根駅前には来ず、平安通の次は、西大曽根を飛ばしてしまって森下となる予定。 |
大曽根には名古屋と中仙道を結ぶ下街道があり、四ツ家(現在のオズモール西の入り口付近)が瀬戸街道との分岐点だった。後に新しく道ができ、旧大曽根村東端(今の大曽根駅西口:かつてのアーケード商店街東の入口)が分岐点となる。それまでの下街道は元山田海道古道として残る。また、名古屋城からは御成道が大曽根まで来ていた。下街道は平安時代から、信州善光寺参りや信州の人々のお伊勢参りなどのために用いられたという古道で善光寺街道とも称された。日本武尊(4世紀頃)が通行したとも言われている。下街道は宿駅は置かれなかったが、大曽根には馬宿、問屋、商店、茶店などが建ち並び、下街道のうちで最も栄えていたという。大曽根はいわば下街道の「準宿場町」だ。瀬戸街道は信州飯田街道、水野街道、品野街道とも呼ばれ、瀬戸から陶器の運搬に利用された。御成道は、尾張藩主が名古屋城と大曽根下屋敷(現在の徳川園)とを往復する時に通行した道。オズモール西の入口とR19を隔てた十六銀行の脇から柳原に行く道がそれ。東部にカーブがあるところが古い道であることを表している。杉栄町バス停付近(杉村一交差点東)で南北二股に分かれるが、南の方が旧道。 一方、新宿も日本橋から、江戸五街道の一つ甲州街道が来ており、1698年(元禄11年)、宿駅「内藤新宿」が置かれた。新宿の誕生はここにある。新宿追分(伊勢丹角の交差点)で青梅街道が分岐する。甲州街道は大名や一般旅行者の利用の他、地方から農産物を江戸の市場に運ぶためにも用いられた。青梅街道は奥多摩方面からの石灰運搬の産業道路、また甲州街道裏街道とも言われ、関所がなかったため関所逃れの旅人も多かったという。このように大曽根も新宿も古くからの交通の要所である。 |
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新宿駅開業は明治18年で日本鉄道(現在の山の手線)開通と同時である。これに対し、中央線大曽根駅開業は、明治33年の中央線開通から11年遅れることの明治44年。大曽根駅の開設は付近の村民たちの悲願であった。瀬戸から陶器を、瀬戸まで燃料を輸送するための鉄道を敷設し、中央線と連絡させるという条件を出すまで、開設の認可がおりなかった。なお、瀬戸線の大曽根駅開設は明治39年で中央線大曽根駅より先だ。開設当時の駅付近は、大曽根は辺りは水田、新宿は旧武家屋敷の雑木林だった。その頃の大曽根の中心は今のオズモール西の入口付近からR19瀬戸線森下駅下辺りにかけて(三菱東京UFJなどの金融機関の大曽根支店が駅前でなくその辺りに集中しているのはかつての大曽根の中心地だった名残といえる)、新宿は新宿追分けより東の旧宿駅・内藤新宿。何と両者とも駅から約500メートル離れた距離だった。 その他の路線駅の開業:市営地下鉄名城は昭和46年、ゆとりーとラインは平成13年、京王は大正4年(当時は新宿追分付近が始発、現在地への移転は昭和20年)、小田急は昭和2年、西武は昭和27年、東京メトロ丸の内は昭和34年、都営地下鉄新宿は昭和55年(相互乗り入れする京王新線は昭和53年)、都営地下鉄大江戸は平成9年、東京メトロ副都心線は平成20年。
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JR線をメインとした位置で考えると中心駅・大阪駅から大阪環状線を半周した所にあるターミナル駅・天王寺である。天王寺はJR関西本線や阪和線、地下鉄、近鉄線が乗り入れる大阪の南の玄関口(平成5年までは南海線も乗り入れていた)。大曽根は駅付近が東区と北区との境で、天王寺も南口が天王寺区と阿倍野区との境といった共通点がある。天王寺は南口の道路(あびこ筋)を渡ればもう街が「阿倍野」に変わる。そこにある近鉄線の駅も「天王寺」ではなく「大阪阿倍野橋」。尚そこでは高層ビル「あべのハルカス」がアベノミクスと騒がれている平成26年3月にOPEN。大曽根も東口は”一応は”矢田だ。名鉄瀬戸線が地べたを走りJR大曽根駅は南口しかなかった頃に軒を連ねていたバラック造りの飲食店街のことを思えば、飲食店が立ち並ぶ阪和商店街がある所も共通していると言える(但し阪和商店街はアーケードがある)。しかし付近に四天王寺など多くの寺が集中し、動物園や美術館や河底池がある天王寺公園があり、通天閣で知られる下町・新世界まで約1km離れているだけ、また駅に櫛型ホームがあることから、東京では東京駅から山手線を半周した新宿というよりは上野に似たような雰囲気だ(上野も付近に寛永寺をはじめとした多くの寺、そして動物園や美術館、不忍池のある上野公園があり、浅草より地下鉄銀座線で3駅目、東北・常磐・上越方面への在来線の櫛型ホームがある)。またJRの線路は高架ではなく掘割方式で、主要道路(線路北は谷町筋、南はあべの筋)が駅の西で線路を渡り、東へ400m程行った所にも四天王寺方面から来る道路の陸橋があるし、ステーションプラザ下の南口と北口を貫くまっすぐのコンコースがある駅舎であるから、東に大津通りが、西にR19が線路を渡る金山を思い出させ、金山も駅付近が中区と熱田区との境。また天王寺も金山も駅東でJR線が分岐する(但し金山駅は東海道・中央両線ホームの間に名鉄線のホーム2面を挟んでいるが、天王寺駅は近鉄線のホームを挟んでいるなんていうことはない)。天王寺北口の谷町筋から線路方面を見てもやはり大曽根よりは金山である。南口へ行っても街の名は変わらぬ金山もJR・名鉄・地下鉄が一体化され総合駅になる前まで名鉄の駅名は「金山橋」であった。 |
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さて、十三の方はどうだろうか。新宿の思い出横丁・焼き鳥横丁や、かつてあった大曽根のバラック造りの飲食店街に似た雰囲気の場所がある。新宿や十三にあるそこは両方ともTV番組・アド街ック天国で放映された。新宿、十三共にかつて「タチション」をする人が多かったため「しょんべん横丁」と呼ばれ、大曽根のそこもタチションがあとをたたなかったそうだ。また、ギター、ハーモニカ、アコーデオンなどを持った流しまで来ていたそうだ。今は大曽根、新宿、十三とも駅前に現代版流し・ストリートミュージシャンがいる。十三はJRや地下鉄は通っていないが梅田から出た阪急線が京都線、宝塚線、神戸線に分岐する交通の要所、十三筋やR176といった主要道路が斜めに走っているためYの字型になっている十三交差点(フレンドリー商店街と十三本一商店街を加えると五叉路になる)、近くに矢田川に相当する淀川が流れ、三菱電機名古屋製作所に相当する広い敷地の武田薬品の工場がある。また、十三も大曽根も新宿も職業安定所(ハローワーク)があるという共通点がある。 というわけで、天王寺より十三の方が大曽根に似ているようだ。大曽根を思い浮かべる街はやはり十三だ。そして十三はアーケード商店街だらけだ(西口に4商店街、東口に2商店街)。西口の十三交差点を渡るとある長いアーケード商店街は、フレンドリー→OZモールではなくJモール→もといまロードの3つの商店街で構成している。大曽根西口の広場を渡った所にある商店街は2つであるため、十三の方が1つ多い。 阪急十三駅の開業(当時は箕面有馬電気鉄道)は明治43年で大曽根駅開業の年(名鉄瀬戸線は明治39年、JRは明治44年)に近い。JR天王寺駅の開業は明治22年、あべの筋の路面を走る阪堺電気軌道天王寺駅前駅の開業は明治43年、近鉄大阪阿倍野橋駅開業は大正12年で当時は「大阪天王寺駅」と称し、その翌年大阪阿部野橋駅に改称。 尚、十三の「しょんべん横丁」は平成26年3月、平成11年11月の新宿のしょんべん横丁(思い出横丁・焼き鳥横丁)での火災をしのぐほどの規模で、十三駅から炎が立ち上がるのがわかるほどの火災が発生。大阪へ私用・出張で行く際にはたいてい寄る十三、復興を望む。平八や松ちゃんという店が好きである。 |
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名古屋の地域で、東京や大阪に対応する地域は下表のとおり(近郊も含む)。―は未発見。
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