花氷
草木も眠る丑三つ刻。とは良く言ったもので、宵っ張りの友人も、この時刻には流石に白川夜船のようだ。 「寝れない…」 さっきから何度も寝返りを打っては、寝ようと試みるのに、一向に睡魔は襲ってこない。 体が疲れていない訳では無い。今日、いやもう昨日、大川の川開きで起こった戦闘を考えれば、体は睡眠を欲しておかしくないくらいに疲弊している。 なのに眠れない。 「…仕方ない…」 寝ている友人達を起こさないよう、静かに寝床から起き上がった高瀬陸は、そっと庭に忍び出た。 明るい月が照らす木々の合間を、ゆっくりと歩む。 眠れない理由は、自分でも良く分かっているのだ。 大川に出掛ける前に見た、衝撃と言っても過言では無い姿。 仕事の前にひとっ風呂浴びようと言う京梧に誘われて、向かったそこで見てしまったある人の湯姿。 白い湯気の向こう、霞むような朧さで、抜けるように白い背中があった。 「あんなの見たら、寝れなくもなるってな…」 背中に斜めに走った痛ましい傷跡。それが陸の心を掻き乱す要因では無い。それも確かに気にかかることではあるのだが、それ以上に、湯気に浮かんだ涼浬の裸体が脳裏から消えてくれない。 女性の入浴を覗くなんてと、自分を諌めなければならなかったのに、体はふらふらと近づいていってしまっていた。 気配を完全に殺しきれなかったからか、それとも彼女が忍びだったからか、危ういところで苦無が投擲された。あのまま、彼女が気付かなかったら。そう考えて、陸はパンッと両手で両頬を鋭く叩き付けた。 「俺もまだまだ餓鬼だったってわけか…」 とすりと近くの木に体を預け、少し欠けた月を見上げる。 女の裸を、それも好いた女の裸を見れば、狼に変身してしまうのは悲しい男の性ではあるが、それでも、もう少し自制が効くと高を括っていた。 いや、現に今までは自制できていたのだ。それが、今になってどうして…。と思いかけ、嗚呼、と思い直す。 これが本気で惚れるということなのか。と。 「は…恥ずかしーっ…」 自分の考えに自分で赤面して、陸は誰に見られているわけでもないのに、照れ隠しのようにガシガシと盛大に頭を掻き毟った。 「ちょっと…頭、冷やそ…」 ポツリと呟くように口唇を動かして、陸はすうっと息を吸いこんだ。 肩幅より少し広く開いた足でザッと大地を踏みしめ、丹田に意識を集める。吸い込んだ空気が熱い気に変わり、大地から螺旋を描くように身体の中を上昇してくる。 スッと瞼を閉じ、呼吸を整えて瞳を開く。 空気を裂くように右腕が閃き、ゆっくりとした動作なのに、常人には捕えられない速さで払った手を返す。 舞踊るような古武道の型。凪いだ湖面を風が触れて波紋を作るように、急がない動きで、でも動作の切り替わりが分からない滑らかな速さで手が、足が、体が、武を踊る。 雑念を払う時は、何時も型をなぞった。呼吸を整え、型の作る流れに身を浸すと、何時だって心は落ち着いた。なのに、今はいくら無心に型を辿っても、思うように心の漣は大人しくはなってくれない。 「っ…」 これではいくらやっても時間の無駄か。そう陸が諦めにも似た気持ちで拳を収めた時、今まで気付かなかった気配を感じ取った。 「…誰だ?!」 敵か?と自分の警戒心の欠落に舌打ちする思いで振り返った視線の先には、月明かりの下何時もより儚く見える少女が立っていた。 「すず…り…」 「あっ……」 木の蔭に隠れるように立っていたのは、今まさに陸が心を乱されている要因そのもの。雑念を払う為に出てきたこの場所で、まさか雑念を呼び起こす当人に出会ってしまうとは。 どうしたものかと言葉なく佇む陸の前で、涼浬は困った時の癖なのか、右頬の上で両手を組んでしどろもどろの言葉を紡いでいる。 「あの…決して鍛錬のお邪魔をするつもりではなかったのですが…その…あまりに美しい型だったので…見惚れてしまって…直ぐに立ち去るつもりだったのですが…目を放せなくて…」 同じような意味の言葉を、違う言葉で何度も繰り返す涼浬に、陸は取り合えず座る?と、近くの木の根元を指し示した。 「いえ…あの…これ以上お邪魔をしては…」 「いや、邪魔なんかしてないよ。寝れなかったから、ちょっと体を動かしてただけ」 人との距離を取るのが苦手な涼浬に、気を遣わせまいと優しく微笑んで、腰に下げていた手拭いを地面に引いてやる。 「あっ…あの………失礼します…」 硬く乾いた地面に直に腰を降ろすのはなんの躊躇いもないのに、自分の着物を気遣って敷いてくれた手拭いの上に座るのは酷く躊躇われて。暫く迷うようにしていた涼浬だったが、促すように手拭いの上をポンポンと叩かれて、心を決めてそっと陸の隣り、人一人分の間を開けて敷かれたそこに、腰を降ろした。 「飛水の里に、報告に帰ったんじゃなかったっけ?」 大川での警護の仕事の後、首尾の報告をしに涼浬は一旦飛水の里へ帰ったと聞いていた。それなのに何故江戸にいるのか、それよりも、何故竜泉寺にいるのかが気になった。 「はい。当初はその予定だったのですが、里へ帰ると言う仲間に書状を渡して、報告の変わりとしました。今、江戸を離れるのは得策ではないような気が致しまして。余計なことだったでしょうか?…あっ…」 一人分の距離を開けた隣りに、心を騒がす女性がいる。手を伸ばせば、簡単に腕の中に抱き込める距離。 手を伸ばして抱き締めたい。 「あのっ!…陸様…その…」 「えっ?…あっ!うわっ!ごっ…ごめんっ。俺…」 何時の間に自分の体が動いたのか、陸には理解できなかった。気が付いたときには、腕の中に涼浬を抱え込んでいた。酷く困ったような顔をした涼浬を。 「わっ…私は…その…これで失礼いたします。鍛錬の邪魔をしてしまって、申し訳ございませんでした」 自分のしでかしたことに驚いて、わたわたと両手を頭上に掲げた陸の前から、パッと涼浬が身を翻した。 涼浬自身も驚いて動揺しているのか、後退りする足運びが覚束なく見える。 軽く頭を下げた後、後ろを見ずに駆け出して行く。 「あっ…」 闇に溶けるように走り去った涼浬の後姿を見つめていた陸は、その姿が見えなくなると同時に、長い長い溜め息をついた。 「逃げてくれて……良かった…」 あのままもし涼浬が何事もなかったかのように隣りに座っていたら、いや、自分の行動を詰ったとしても、多分その体を地面に押し倒していただろう。 それほどまでに陸は涼浬に飢えていた。 出会って、仲間になって、共に行動するようになってまだ日は浅い。お互いを知り恋に落ちるには、些か充分とは言えない短い時間。 それでも心は涼浬を欲していた。 人を愛しいと思うのに、時間の長さは関係ないと、見を持ってして始めて知った。 今すぐにでも追い掛けて行って、もう一度抱き締めたいと、子供の我侭のように騒ぎたてる内心に、足もとの小石を苛立ち紛れに蹴り飛ばす。 「なにわともあれ、明日にでも…謝りに行ってこうよう…」 頑なだった心を漸く開き始めた涼浬に、無体を敷いた自覚があるだけに、顔を見に行くのは酷く心もとないが、知らぬ存是ぬを貫き通すのは性に合わない。 盛大に罵られに行くか。と、剣一筋の相棒の能天気さに似た諦めの笑みを浮かべ、前以上に眠れなくなった心と体を引き摺りながら、陸は寝所へと足を向けた。 足音を殺して辿り付いた店の中へ、倒れ込むように体を押し入れた。 「はぁはぁ…はぁっ…」 完全に息が上がっていた。 内藤新宿から王子の骨董品店までの距離を考えれば、走りきった事のほうが驚愕に値するが、整えることもままならない荒い息に、苛立たしげに涼浬は掌を握り込んだ。 ずるりと、体が吸い寄せられるように床に崩れ落ちた。 無茶な疾走を続けた体は疲労しきっていて、立ち上がろうにも足が痙攣して力が入らない。冷たい土間に縫いとめられたように体を預けながら、涼浬は心を乱す先ほどの出来事を思い返した。 何故、あのようなことを――――。 酸素を求めて痺れる脳に、陸の顔が浮かぶ。 何の前触れもなく伸びてきた腕に、強く抱き締められた。息が止まってしまうのではないかと思うくらいに、強く。 抱き締められて密着した陸の体は熱かった。 見た目はひょろりとして頼りないくらいなのに、頬に押し当てられる胸は、思いの他鍛えられた筋肉の張りを持っていた。その胸から、彼の早鐘のような鼓動を聞いたような気がした。 「陸さま…」 ずっと忍びとしての修行に明け暮れていた涼浬には、人が人を思う恋慕の情が、いまいち理解できなかった。 飛水の里の中で、見目良いくノ一は、男を陥落させる術を学ぶ。褥を共にするまでもなく、男にしなだれかかり、誘うような仕草と艶やかな微笑で、脂下がった(※1)男達から様々な情報を引き出すのだ。 涼浬は、それが事の外苦手だった。 いくら言われた通りにしてみても、上手くいかない。それどころか、男を前にすると微笑むことすら酷く困難だった。 そんな女としての魅力に乏しい自分に、陸が欲情したのだとは考えられなかった。ましてや、陸の周りには見目麗しい女性が大勢いる。到底自分など入り込める訳もない。 と、そこまで考えて、涼浬はハタと自分の考えに瞠目した。 「私は…っ」 陸の突然の行動が、何に起因しているのかを考えていたはずなのに、何時の間にか涼浬の考えは、自分程度の女では陸の隣りに立てないのではないか、に変わっていた。 「私はなにを考えて…」 何時も陸の隣りにいる美里や小鈴に対して、悋気さえ抱いた自分に、涼浬は嫌悪を感じて口唇を噛み締めた。 忍びの仕来りに雁字搦めにされた自分が、陽の気に溢れた彼を思うことは、ましてや彼の周りにいる人達に嫉妬するなど、おこがましいような気がしたのだ。 しかし、いくら自分を諌めてみても、やんちゃな少年のような笑みを浮かべる陸の姿を、脳裏から追い払うことはできなかった。 つづく (※1)脂下がる――得意になって(いい気味で)にやにやする。 岩波国語辞典より抜粋 |
主×涼浬です。
男女ものを書くのは酷く久しぶりだったので、かなり照れました(笑)
しかも、純愛路線です。
エロ話ししか書いてなかった蒼一郎としましては、
少女小説のようなこの話しを書いてる最中、
一人身悶えすること多数(笑)
エロ書くより恥ずかしいです。(おかしいです)
最後の注釈は、添削をしてくれた友人が読めない、意味が分からないと言うので
付け加えてみました。
なんとなく、表現というか、言葉てきにこれが1番適切な気がしたので、
変えたくなかったの。
2002.03.19