山中城跡

所在  静岡県三島市中山新田

交通  JR東海道本線三島駅よりバス山中下車

歴史   山中城は永禄年間(1558~1570)、関東を統治していた北条

       氏康が、本城のある小田原の西側の防備を目指し築いたのが

       最初とされる。

       のちの天正十五年(1587)、後継者北条氏政・氏直父子は豊臣

       秀吉の関東侵攻に備えてこの山中城の増強を図る。

       天正十八年3月、京を出発した豊臣軍は小田原城包囲を前にこの

       山中城に攻め寄せる。豊臣秀次を総大将に実に総勢7万の軍勢。

       それに対し城将松田康長を筆頭に守る城兵は僅か4千。

       3月29日午後から開始された戦闘は、城兵、よく守るも豊臣軍の

       圧倒的な兵力により、康長そして副将の間宮康俊が討死。

       数時間で山中城は落ちたという。

        山中城跡石碑

        本丸跡

        畝掘(1)

        畝掘(2)

一言    山中城は箱根山西麓の標高580m地点に残る山城である。

       城跡は国道1号線に分断されてしまっているが、国指定の史跡として公園化

       されている。

       広大な城跡には本丸・二の丸・三の丸・出丸・土塁等のほか、北条流築城法

       として知られる障子堀や畝掘などが現存する。三の丸跡には両軍の戦死者を

       弔うために建てられた宗閑寺があり、松田康長・間宮康俊、そして豊臣軍で戦死

       したの一柳直末の墓が残る。北条氏の目論みは山中城にて豊臣軍を足止めする

       事にあったが、上記の通り城は僅か数時間で落城してしまった。この報を聞いた

       北条一門は震撼したという。

     

         土塁跡

         宗閑寺に残る松田康長・間宮康俊・一柳直末の墓

         城跡より三島市を望む

      

         広大な公園として整備されている

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