田中城跡
所在 静岡県藤枝市田中
交通 JR東海道本線藤枝駅よりバス大手下車
歴史 田中城の前身はは室町時代に一色左衛門尉信茂が築城した徳之一色城
とされ、当時は今川氏の属城であったが、のち武田信玄の侵攻により落城
した。信玄はその名を田中城と改め、馬場美濃守に命じて修築を図った。
修築後、山縣昌景・板垣信安ら重臣を相次いで城主に据え、対徳川の圧力
を強化したが、天正年間になると武田氏の勢力が衰退、天正十二年二月、
城主依田信蕃はついに田中城を開城、徳川氏に手中に収まる。
その後、慶長五年(1600)の関が原合戦以降は、酒井・松平・水野氏ら譜代
の大名が短期間城主を務めるが、享保十五年(1730)に本多氏が入城、そ
のまま幕末を迎えた。
本丸跡には現在の西益津小学校が建つ
田中城石碑
一言 田中城跡は現在、市立西益津小学校の敷地となっており周囲に一部遺構を
残すのみであるが、武田氏築城法の一つ、三日月堀が残存する。その他、水
堀や土塁なども整備され残っている。当時の記録によると、武田氏は田中城を
三重の土塁と堀を巡らした日本でも珍しい円形の城に作り上げた。
なお、家康の死因説の一つとして『鯛のテンプラを食したため』というのがあるが、
そのテンプラを食べたのがこの田中城であったという。また、田中城の城主を
務めた者が江戸幕府の要職に数多く就いたことから、別名『出世城』とも呼ばれ
ていたという。
田中城ニの堀
三日月堀