高天神城跡

所在  静岡県小笠郡大東町下土方

交通  JR東海道線掛川駅よりバス高天神城入口下車

歴史  高天神城の歴史は古く、鎌倉時代に土方次郎義政が山頂に砦を

     築いたというが確証はない。応永二十三年(1416)、今川範政が

     今川了俊の進言により築城したとの説もある。

     高天神城が歴史の表舞台に登場するのは、今川義元が桶狭間で

     討死したのち、今川氏没落に乗じて甲斐の武田信玄がこの高天神城

     を手中に納めようと侵攻した頃からであろう。

     義元の子、氏真が北条氏を頼って落ち延びたのち、高天神城は徳川家

     康臣下、小笠原与八郎長忠らが守っていたが、元亀ニ年(1571)3月、

     信玄は2万の兵を以って高天神城に攻め寄せる。が、城を落とせず

     退却している。 

     のちの天正ニ年(1574)5月、信玄没後に当主になった勝頼は再度

     高天神城を囲み、6月にこれを落とした。

     しかし翌天正三年、設楽が原で勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると

     急速に勢力が減退、一転、高天神城は家康に包囲される。家康は高天神

     城攻撃に際して長期戦を予期し、周囲に砦を10以上作ったとされる。

     天正九年、援軍を得られず高天神城は落城。再度徳川氏の支配下と

     なり、その後廃城になった。

       高天神城遠望

       本丸付近に建つ石碑

       本丸跡

 

一言  城跡は標高132m、遠州灘と掛川を結ぶ要衝に位置している。

     本丸・二の丸・三の丸・三日月井戸のほか、御前曲輪・空掘・堀切などがよく

     残る。

     「高天神城を制する者は遠州を制する」と言われたほど、その軍事的意義は

     強かった。それだけこの高天神城を巡る攻防戦は有名であり、数々の逸話を

     残す。中でも、信玄さえ落とせなかった高天神城を落とし、威勢を張る勝頼に

     馬場美濃守が『武田家滅亡の始まり』と嘆いた話はつとに有名。

     戦前には御前丸付近に模擬天守が建てられていたというが、落雷により消失

     したとされる。

     (なお、地元の人の話によると太平洋戦争中、米軍機が遠州灘より侵攻する時にこの模擬天守

       を目印にするとマズイので撤去したとも。また、その人は『山の神』を祭った高天神社の裏手の

       二の丸付近を観光のために開発しようとしていることについてえらく憤慨してました。「あなたは

       どう思います?」と聞かれてチト答えに困った思い出があります。)

       御前曲輪付近の模擬天守跡 

       二の丸付近(もしかしたら今は整備されているかも)

       三の丸付近

 

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