修善寺城跡

所在  田方郡修善寺町本立野

交通  伊豆箱根鉄道修善寺駅より徒歩40分

歴史   室町時代初期、鎌倉公方足利基氏の執事として専権を振るった畠山

      入道道誓国清であったが、そのため主君である基氏と確執が生じ、疎

      まれるようになった。

      康安元年(1361)、伊豆に追放された国清は一族郎党とともに修善寺

      ・金山・三津三城に立て篭もり、足利氏に反旗を翻した。基氏は鎮圧軍

      を編成、この修善寺城に攻め入るが、畠山軍により基氏軍は総崩れと

      なり、鎌倉に敗走する。

      翌年秋、基氏は関八州の軍勢20万騎をもって再度修善寺城に攻め入

      り、水脈を断つなどして遂にこの修善寺城を攻略する。

      国清は夜陰にまぎれて逃亡し、神奈川県藤沢市に今も残る清浄光寺に

      入る。この清浄光寺は当時、『武士の駈込み寺』になっていたとされる。

      その後、国清は西国を流浪し、南都で窮死したとされる。

      その後、伊勢新九郎(北条早雲)が伊豆に進出した時、堀越公方茶々丸

      側の拠点として使用されたという。

        修善寺城跡遠望

        麓に建つ城山神社

一言  城跡は桂川と大見川とが狩野川に合流する地点の標高240mの山中に

     残る。南北200mの尾根上に曲輪が配置されているが、本丸曲輪にはテレ

     ビ塔が建ち、南曲輪には以前まであったロープウェー駅舎跡が建っている

     など破壊がはなはだしい。但し本丸曲輪には井戸らしき跡、また周囲を注意

     して見ると、土塁跡や帯曲輪などが残っているのが確認できる。

     麓の城山神社の裏側の急坂を登ること約20分で山頂に達する事が出来る。

       本丸曲輪に残る井戸跡 

       城山公園と記された石碑

       本丸曲輪より南曲輪を望む

      

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