諏訪原城跡

所在  静岡県榛原郡金谷町牧の原

交通  東海道本線金谷駅より徒歩30分

歴史   諏訪原城の前身は永禄十二年(1569)、高天神城攻略を目論む武田信玄

      が馬場美濃守信春に命じ作らせた砦とされる。信玄死後の天正元年(1573)、

      跡を継いだ勝頼が再び馬場信春に命じ本格的城郭を構築し、城内に諏訪明神

      を奉った事から諏訪原城と名づけられる。

      この諏訪原城を拠点として、翌年5月には念願の高天神城を奪取し遠州支配

      の足掛かりを掴むが、天正三年5月の長篠の戦い(設楽原合戦)にて武田氏は

      織田・徳川軍に完敗、一転して徳川氏の侵攻を受けることになる。

      同年6月より始まった徳川軍の攻城に対し、城主今福丹波守顕倍以下城兵は

      よくこれを凌いだが、甲斐の勝頼からの援軍を得られず将士は夜陰に紛れ小山

      城に退却、ついに諏訪原城は落城した。

      家康入城後は城を牧野原城と改名、城主に松平周防守康親を配した。その後も

      駿・遠両国の境の城として機能していたが、天正十年3月に武田氏が滅びると

      その重要性を失い、のち廃城になった。

      諏訪原城跡石碑

       本丸跡

      天守台跡

      乾曲輪と二の丸を隔てる堀

一言   諏訪原城跡は標高217m、比高140mの牧之原台地に残っている。城の東部

      と北部は急峻な断崖で、当時の要害ぶりが垣間見れる。

      遺構は戦国時代末期の築城法を、特に武田氏甲州流軍学の縄張りを色濃く残し

      ている。茶畑になっている個所も多々あるが、概ね旧状をよく残しており、広大な

      城跡には武田氏特有の三日月堀のほか、本丸・二の丸・天守台地・馬場跡・土塁

      などが確認できる。

      特に今も建っている諏訪神社の周囲の堀は、今をもっても素晴らしい。

      とにかく絶賛、絶賛の城跡である。

      諏訪神社

      大手郭跡

      戦死者塚

      三日月堀

      (ちょっと画像を多くしてみました)

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