小山田城跡
所在 町田市小山田
交通 JR横浜線小田急線町田駅よりバス大泉寺下車
歴史 小山田城は承安元年(1171)、桓武天皇の流れをくむ小山田別当有重がこの
地に居館を構えたことに発する。
小山田有重は源頼朝の家人として従軍、建久元年(1190)頼朝入洛に際しては
子の三郎重成らを京に派遣するなど鎌倉幕府開幕に尽力する。
頼朝死後の元久ニ年(1205)、北条時政の誹りを受けて長男稲毛重成・重成の
子重政・弟四郎重朝が将軍実朝に誅されると勢力は一時減退するが、元弘
三年(1333)、小山田氏の末裔太郎高家は小山田城を本拠に新田義貞の挙兵
に加わり、北条泰家の軍を追って鎌倉に攻め入るなど活躍したという。
この前後、高家は更なる勢力拡大を画策するが、新田義貞が足利尊氏と争うに至り
湊川の戦いで義貞を救って討死してしまう。
高家の死後、城の歴史については不明な点が多いが、室町中期以後、武相国境
の要衝として再び重要視され、扇谷上杉氏の属城として修築されたという。
大泉寺山門
小山田城跡石碑
一言 小山田城跡は現在の大泉寺一帯が城域とされる。
城跡(寺院)の南は緩やかな坂道(寺の参道)となっているが、西側・北側は深く落ち
こみ要害をなしている。
遺構も本堂裏山に残るとされるが、登り口が解からず遺構を確認するに至らなかった。
なお、永禄ニ年(1559)の『小田原衆所領役帳・他国衆』の項にこの地を領する者
として小山田弥三郎の名があり、これは甲斐郡内(大月・都留)一帯を治めていた
小山田信茂とされる。つまり信茂は遠隔地に所領を有していたこととなるが、これは
当時小山田氏が甲斐武田氏に属す一方で半独立的な立場から北条氏にも誼を
通じ、北条氏から所領を与えられていたと解釈できる。
但し「弥三郎と信茂は別人」とする他説もあり、あわせて付記する。
城跡遺構は本堂裏手の山に残るという