長久保城跡

所在  静岡県駿東郡長泉町長久保

交通  JR御殿場線裾野駅よりバス城山下車

歴史   長久保城は鎌倉時代、この地を治めていた竹之下孫八左衛門が砦

      を築いたのが最初とされる。

      室町時代後期には大森氏の同族、葛山氏がこの地方に勢力を持って

      いたことから、この長久保城もその支配化にあったと推測される。

      その後、伊豆を奪取したの北条氏持ち城となったが、北条氏が今川氏

      と敵対、和議の条件として北条氏はこの長久保城を放棄する。その後

      暫く今川氏の手にあったが、三国同盟崩壊ののち今川氏が衰退、再び

      北条氏の持ち城となるが、元亀二年(1571)に武田信玄が深沢城を降

      ろした事から、この長久保城も武田氏の手に移っていたと考えられる。

      天正十年(1582)武田氏滅亡後は、駿河を領有した徳川家康の持ち城

      となり、家康はこの長久保城を修復し、小田原攻めの本陣を置いたとさ

      れる。江戸幕府開幕後廃城。

        南曲輪跡に建つ城山神社

        城山神社社殿

 

一言  上記の通り、室町時代末期から戦国時代にかけて北条氏・今川・武田・

     徳川氏により争奪戦が繰り広げられ、戦国時代には駿東最大級の城に

     発展した。

     黄瀬川を天然の堀として南側に擁し、本丸の他にも二の丸・三の丸・八幡

     曲輪・南曲輪があったとされる。但し、新幹線建設のための採土や国道246

     号バイパスの建設により、遺構が残存するのは南曲輪の一部分だけである。

     (本丸付近は現在ショッピングセンターに変貌)

     道路建設における事前調査では、武田氏築城方式の三日月堀のほか、北

     条氏築城方式の障子堀が発掘されるなど領主が目まぐるしく替わった事を

     物語っている。     

       神社裏手には土塁の一部が残存する

       本丸跡は採土により窪地になり、更には商業地となっている

      

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