光明城跡
所在 静岡県天竜市山東字光明山
交通
歴史 光明城は享禄年間(1528〜1532)に朝比奈時茂が築城したとされるが詳細は伝
わっていない。
元来、この地には光明寺があり、築城に際して時茂は光明寺を移転(現在の光明寺
の地)させ、防御施設を整えていったとされる。
この光明城が資料に出現するのは元亀年間からで、武田方の持ち城として城番が
置かれていたと言う。このことは『浜松御在城記』に「天正元年、武田勝頼が犬井(犬居)・
高明(光明)・多々羅(只来)・二俣各城を巡検した」との記載があることから明らかである。
同じく『浜松御在城記』によると徳川軍は天正三年6月には光明城攻めにとりかかり、
武田勝頼が家臣山県源四郎宛に送った7月4日付書状に光明城落城の記載があること
から、落城は6月中と思われる。
以降、光明城は徳川氏家臣で二俣城主の大久保忠世の支配下に置かれていたが、
天正十年(1582)頃に廃城になったとされている。
光明寺跡(光明城城域)
石垣は寺院遺構
寺院も火災により焼失・移転した
一言 光明城跡は標高539mの光明山山頂一帯に築かれていた山城で、『光明城跡』という
より『光明寺遺跡』として有名である。
築城のために一度この地を離れた光明寺であったが、戦国時代が終わった慶長年間頃に
再びこの地に戻った。その後、光明寺として本堂・石垣等を築き寺院として発展したために
城郭としての遺構は残念ながら残っていない。ただ、地形と本堂跡右手奥には攻城時に
戦死した徳川氏旗頭5人の『五人塚』のみが往時を偲ばせるのみである。
光明城廃城後、この地に戻った光明寺であるが、昭和6年の火災により本堂一帯を焼失。
再び現在の地に移転している。
城跡(光明寺遺跡)へは道路が整備されており車であれば難なく行くことができることから、
戦国期の遺構でないにせよ、今なお石垣が残る寺院遺構を見るのも一興と思う。
家康腰掛けの石
五人塚
寺院遺構からの眺望は素晴らしい