手習い 「難しすぎる!」 「秋良様!」 あーーーっと叫び声を上げて足を崩し、爪をぽいっぽいっと投げ出した秋良に、夏月が厳しく叱る。 今日も二人は琴のお稽古をしている。 けれど、琴が苦手な秋良は、少し練習しただけで、すぐに嫌になってしまい、逃げ出そうとする。 琴の練習など、御所に来てから始めたので、とても下手だ。音楽は好きだが、演奏はとても苦手で、練習は苦痛以外の何物でもない。 「せめて一曲、一曲だけでも仕上げてください」 とうとう夏月は拝むようにお願いした。 「どうしてそんなに琴を弾かせたいのさ。別にどうでもいいじゃないか。誰に聞かせるわけでもなし」 「帝にお聞かせするのです。ご政務でお疲れの陛下を、お慰めするのも、秋良様のお努めですよ」 「えー、疲れてるんなら、何もしないのが一番……」 「秋良さまっ」 「ここはいつも賑やかで楽しいな」 二人の攻防に突然割り込む声があった。話題の主、帝の洋也である。 「陛下!」 「まだ昼なのに」 先触れもなく帝がやってきたことで夏月は慌て、秋良は溜め息をついた。 咲玖来が洋也のうしろで苦笑を隠す。 「先触れはこの咲玖来だ。歩くのが遅かったんだな」 先触れと同時にきたのでは、先触れとはいわないのではないかと文句を言う秋良をたしなめつつ、夏月たちは帝をもてなす用意をする。 「姫の琴を聴きたいな」 「無理っ」 「そ、それは、もう少し練習していただいてから」 座敷の真ん中に出ていた琴を見て、洋也が聴かせてくれと請う。 秋良は即答し、夏月は申し訳なさそうに断る。 「少しは弾けるようになったのだろう? さわりだけでもいいから」 どうしたことかあきらめようとしない洋也に、夏月は困ったように咲玖来を見た。本当に聴かせられるような腕ではないのだ、悲しいことに全然。 「陛下、秋良子様も今日は練習でお疲れのようですし」 咲玖来の助け舟に、秋良もそうそうと頷く。 「では、本当にでだしだけ」 食い下がる洋也に、夏月は困りながらも、秋良の前に琴を移動させた。 「えー、無理だって。無理無理。本当に無理っ」 唇を尖らせて、秋良が抵抗を示す。 「聴かせてくれたら、あの星の干菓子を取り寄せよう。今度はもっとたくさん」 秋良の頬がぴくっと動く。 「本当に?」 「姫に嘘はつかない」 「どんなに下手でも、絶対に取り寄せてくれる?」 「もちろん」 しばらく逡巡したあと、秋良は投げ出していた爪を指にはめる。 洋也はにこにことその様子を見ている。 ぽろんぽろんと弦と爪の調子を確かめてから、秋良は桜を題材にした練習曲を弾き始めた。まだその曲しか弾けない。 それはとても曲と呼べるものではなく、つっかえつっかえながら、たどたどしい音の繋がりでしかなかった。 まだ一曲を弾くことはできないので、半分まで来たところで、秋良は手を止めて、洋也を見た。 洋也は頷いて、拍手をする。 「無理に褒めなくていいよ」 下手なことは誰よりも自分がわかっている。 「あなたが私のために弾いてくれたというのが嬉しいんだ」 「陛下のためじゃなくて干菓子のためだけど」 「秋良様っ!」 夏月が疲れきったように秋良を叱る。 それでも洋也は嬉しそうに、秋良を手招きする。 秋良が少し不満そうでありながらも、洋也の隣に移るのを見て、夏月と咲玖来は部屋を出て行った。 「ありがとう、秋良」 膝に抱き上げるようにして、秋良を抱きしめる。 「だから、陛下のためじゃないってば」 「それでも、嬉しかったんだよ」 「そう。……別にいいけど」 困ったように俯く秋良の顎を上げさせる。 怖がらせないようにそっと唇を重ねる。 「まだ、外は明るいのに……」 まるで暗ければ何もかも許してくれそうな台詞に、洋也は微笑む。 「愛してるよ」 強く抱きしめる。 干菓子など愛する人が望むのなら、何かと引き替えでなくとも、欲しいだけ取り寄せるのに、何一つ要望を出してくれない。 欲しそうなものを手に入れてはせっせと運び、その反応に一喜一憂しているのは、他の誰でもない自分だ。 真剣な顔で琴を弾いてくれる秋良が愛しくてたまらなかった。 「また聴かせて欲しいな」 「もう少し……うまくなったら」 今のままでは、金平糖をただねだっただけになる。秋良はそれが申し訳なくて、とても困っていた。 「期待しているよ」 秋良が稽古を放棄し夏月に叱られているのは、承香殿に入った時から聞こえていた。琴が苦手で嫌いなことも本人から散々愚痴を聞かされているので知っている。 それでももう少し練習してくれるという気持ちが、とてもとても嬉しかった。 ぎゅっと抱きしめると、そろそろと背中に回される手に、最上の幸せをかみしめていた。
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