「おや? ご機嫌斜めだね」 部屋を訪れるなり、洋也は秋良の目の前に座り、眉を上げて秋良を覗き込んだ。 秋良は憂鬱さを隠さずに、顎を掴もうと伸びてくる洋也の手をパシンと叩いた。 「秋良様」 相変わらず、それを咎めるのは夏月だ。 いつもなら夏月を恨めしそうに見たり、渋々ながらも洋也に視線を移すのに、今夜の秋良は、ため息をついて、脇息に顔を伏せた。 「秋良。どうした?」 さすがに洋也も心配になり、うつぶせた秋良の背中に手を添える。 だが、秋良は身を捩って、その手から逃れようとした。 「畏れながら、陛下……」 夏月が床に額を擦り付けるように深く身を折った。 「言ったら駄目だ!」 秋良がきっと顔を上げて夏月を睨んだ。 「けれど、秋良様」 「言ったら駄目」 言っては駄目だと繰り返す秋良に、洋也は難しい顔をした。 「どうして言っては駄目なんだ? 何か困ったことがあるなら、言って欲しい。なんとでもしよう」 「だったら、帰らせて」 秋良は脇息に倒れ込むような姿勢のまま、洋也を見上げた。 「それはできないと最初に言った」 「どうしても?」 「どうしてもだ」 「だったら、……もうここにはこないで」 縋るように言われ、洋也は厳しい表情で秋良を見据えた。 「何があったんだ?」 洋也が問うと、秋良は首を振った。 「言いたくない」 「ならば、その願いも聞き入れられないな」 「そればっかり! 結局、何も聞いてくれない!」 秋良の批難に洋也は一瞬辛そうに眉を寄せて、すぐにまた真顔に戻った。 「咲玖来!」 洋也が大きな声で咲玖来を呼ぶと、几帳の影から「ここに」と声が聞こえた。隣の間に控えていた咲玖来がやってきたのだろう。 「秋良子に何があったのだ」 「先日より、庭に塵が投げ込まれるようになり……」 「どうして私に報告しなかった!」 帝の怒りをはじめて間近に見て、秋良はそっと夏月に擦り寄った。秋良は人の感情の激しい起伏に慣れていない。 「秋良子様が……誰にも言わないで欲しいと仰いましたので」 恐縮し切った声が布越しに聞こえてくる。 秋良子の良いようにしろと命を下したのは確かに自分である。あるが……。 「それとこれとは話が違うだろう」 「咲玖来は悪くない!」 夏月の袖を握り締めた秋良が、濡れた目で洋也を睨んでいた。 「秋良……」 「僕が……、僕が言わないで欲しいっていったんだ。……咲玖来を叱らないでよ」 「……すまない。……つい」 洋也はようやく表情をほんの少し和らげ、唇に微かな笑みを浮かべる。 「咲玖来、すまなかった。下がって良い」 「もったいないお言葉、ありがとう存じます」 衣擦れの音がして、咲玖来が出ていった。 「ちゃんと調べさせよう。二度とないように」 洋也が安心させるように言うが、秋良は首を横に振った。 「そんなことしても……変わらない」 「何故」 「あなたがここにばかり来るから……。だから、僕が憎まれるんだ。誰のせいでもない。あなたのせいだ……」 洋也はとても悲しそうに、顔を歪めた。 「……私が……ここに来ては、いけないのか?」 秋良は頷く。 「ここに来なくても、他のところにも行かなくても?」 秋良は洋也の言葉の意味がわからないと目を細めた。 「どうせ、今までにも、他の女御を訪ねることもなかった。だから、ここに来なければ、私は清涼殿で一人眠るだけだ」 秋良は用心深く、洋也を見た。 「一人で……寝ればいいじゃないか」 「あなたがいるのに?」 「僕は……嫌だ」 秋良は夏月の袖に顔を隠して、肩を震わせている。 「辛い思いをさせてすまないと思う。けれど、私はそれでも、あなたが欲しい。あなただけが」 秋良は真剣な洋也の思いを聞いても顔を上げようとはしなかった。 「秋良様……。いつまでもそのように拗ねられていては、帝もお困りですよ。女の嫉妬は恐ろしい物。これくらいのことで挫けてどうします。帝も咲玖来様も、そして夏月もきっと秋良様をお守りしますから。帝のお渡りがなくなっても、それまでご寵愛を受けた秋良様に対する嫉妬は消えませんよ。それなら、毅然としていてください。秋良様が泣けば泣くだけ、相手を喜ばせるだけですよ」 秋良は諭すように言われ、夏月を見上げた。 「だって……」 「怖くなどないですよ。秋良様はお顔もとても綺麗ですけど、お心もとても澄んでらっしゃいます。ですけど、もう少し強くなってください。そうすれば、誰も秋良様に手出しなどできませんわ」 夏月に言われ、秋良は涙を止めた。 「さあ、帝に抱きしめてもらいなさいまし。そうすれば、怖いことなどないとわかりますから」 夏月は秋良の手をとって、帝のほうへと導いた。 秋良の目が、夏月から洋也へと移動する。 「ありがとう、夏月」 洋也は夏月に礼を言って、白く細い指を揃えた綺麗な手を受けとめた。 「おいで。きっと、……守るから」 するりと秋良の身が洋也の胸に倒れてきた。 「お願いいたします」 夏月は頭を下げて、部屋を下がっていった。 「辛い思いをさせてすまなかった」 秋良は何も言わず、洋也の腕の中でそっと首を横に振った。 洋也は秋良の庭に塵を投げ入れた犯人を捕まえようと調べさせたが、塵だけでは特定できず、それぞれの女御の親元が犯人探しに難色を示し、結局、捕まえることはできなかった。 咲玖来に気をつけるように言い、また何かあっても秋良子を怯えさせないようにと気を使えば、その分、秋良に対する嫉妬は深くなっていった。 ただ、以前のように、あからさまに塵を投げ入れたり、そんなことはできなくなった分、陰湿さを増していった。 ひたすら隠そうとしても、秋良は敏感に人の悪意を察知して、日毎に憂鬱が深くなっていくようで、洋也が宥めても、眠れない日が増えていくようだった。 「行きたくない」 管弦の宴が催されることになり、秋良子にもそれに出るようにと、席が用意された。 当然、秋良はそんな場所に出たくないと言い張った。 「けれど、秋良様……」 帝が主催の管弦の宴であれば、女御が出ないわけには行かない。 「行きたくない……」 何を言われるのか、どんな目で見られるのか、それを思うと身が竦む。 「帝のためですから」 わかっている。わかっているから行きたくない。 どれだけ優しくされても、どれだけ労わられても、この部屋から出るのは怖い。 「気晴らしにもなりますよ」 そう言われても、うんと頷くことはできなかった。気晴らしなんて、まだここにじっとしているのが一番いいのだ。 人に言われることより、されることより、その悪意が怖い。 「秋良様……。お兄様もいらっしゃいますよ」 兄が来る。久しぶりに会えるといわれれば、秋良の心は動いた。 「出るだけでいい? 何もしなくていいんだね?」 「そのように覗っています」 「それだけなら……」 渋々ながらも頷くと、夏月はすぐにも着替えの用意をさせた。 薄桃色の地に、桜模様の衣は、色の白い秋良によく映えた。 「とてもお綺麗……」 お付の女房から感嘆の声が上がる。 それを複雑な思いで聞いて、秋良は桧扇を手に持った。 咲玖来を先頭に静々と進む。 もうすぐ清涼殿が見える角を曲がった時、秋良の頭上から何かが降ってきた。 「きゃあ!」 女房達が慌てふためく。 それとは別にあちこちから、忍び笑いの声が響いてくる。 「秋良子様!」 夏月が呆然と立ち竦む秋良を隠そうとする。 「…………灰?」 髪から、肩から、流れる裳裾を滑り落ちて行くのは、白い灰だった。 「戻りましょう」 咲玖来が秋良の肩を抱くように廊下を戻る。 「泣いては駄目ですよ。相手を喜ばせるだけですからね」 夏月がしっかりしろと励ましてくれるが、秋良は涙も出なかった。 |
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