承香殿へ戻った秋良は、まだ身体が小刻みに震えていた。今も髪を白い灰が伝い落ちる。部屋の中にも灰の匂いが立ちこめる。
「秋良様、御髪を洗いましょう」
 髪を洗う日は決められているが、事態が事態なので、それは出来ないとも言ってられない。
「どうしてこんな……」
 秋良は灰のかかった着物を脱ぎながら、深い溜め息をついた。
「帝から、遣いの者が。秋良子様は、まだかと」
 部屋の外から声がかかった。
 到着の遅い秋良を心配して、遣いを寄越したのだろう。
「今日は障りが起こったとお断りしてきましょうか」
 咲玖来が几帳の向こうから声をかけてきた。
「そうですわね。秋良様、いくらなんでも、これはあんまりですわ。帝にお話して、あの者達を罰してもらいましょう。そうしなければ、また、いつ……」
 夏月は憎々しげに、几帳の奥を見遣った。灰を被った衣装が脱ぎ捨てられている。秋良は特に女性用の装束に好みもないが、いつだったか、それを着ていた時に、洋也が誉めてくれたのを思い出した。
「行くよ」
「え?」
「咲玖来、少し遅れますがと伝えてきて。急いで行きますと」
「よろしいのですか?」
 咲玖来と夏月の驚いた声が重なる。
「顔を上げて歩けって言ったの、夏月じゃないか」
 秋良は無理にも明るく笑う。
「負けない。負けたくないんだ。それに……、こんなことで罰するだとか、可哀想だよ」
 秋良の言葉に、夏月の方が驚く。
「可哀想なのは、秋良様です」
「違うよ、夏月。だって、罰せられるなら、ぼくがその先頭だもの」
 秋良の言葉に夏月ははっと息を飲む。
「だから、咲玖来、お願い。伝えてきて。すぐに覗いますって」
「承知致しました」
 咲玖来が行って、夏月は急いで秋良の髪に丁寧に櫛を通した。
 元々が油も必要のないほど、綺麗な髪だ。さらさらと音をたてるような美しい髪が、羨ましいと、女である夏月でさえ、そう思うのだ。
 細めの櫛で丁寧に梳くと、灰の方から滑り落ちて行くように思えた。
「あの青い衣装がいいな。ほら、この前、お姉様が届けてくれたの」
 秋良が望むと、夏月は嬉しそうに笑った。秋良から装いに何かを言うのも初めてだった。
 夏月が畳紙から、青にこれもまた桜の模様の衣装を取り出した。
「何をお召しになっても、本当によくお似合いになりますわ。色がお白いから、青がよく映えます」
「あんまり嬉しくないんだけど」
 どちらかといえば、狩衣を着て出仕したかった。その気持ちは今も変わらない。
「夏月は自慢です」
 夏月にきっぱり言われ、秋良は淋しそうに笑った。
 このまま逃げ帰れば、きっと逃げられる。
 それは避けがたい誘惑ではあったけれど、どうしても、『ここに』洋也を一人で残して、一人だけ安らかな場所に帰ることは、できなさそうに思えた。
 逃げ帰れば、後悔するだろう。
 そして、どんなに後悔しても、もうここには戻れない。
 ならば、決死の抵抗をしてみようと思ったのだ。
 どんな嫌がらせにも屈しない。にっこり笑って耐えてみせる。
 そして我慢ができなくなったら、堂々と出て行ってやる。
 覚悟を決めた秋良は強かった。
 元々、屋敷の奥で育てられた秋良である。諦めも人一倍早かったが、開き直ると、頑とした強さがあった。
「ご用意は」
 咲玖来の声に、夏月ができましたと答える。
「行きましょう!」
 夏月のきっとした声に、秋良は微笑んだ。まだきつさの残る笑みではあったが、今までの秋良とは違う何かを感じさせてくれた。
 
 
「一体、何様のつもりかしら。こんなに遅れて」
「勿体つけちゃって、嫌よねぇ」
 ざわざわとした声は、潜められているものの、傍を通れば否応なしに聞こえる。
 女御の控える場所は、それぞれが御廉と几帳で区切られている。互いに顔を見合わせることはないが、それとなく雰囲気は伝わるものである。
 女御の中でも、一番身分の低い秋良は、帝から一番遠い場所に座る事になる。
 全員が揃ったところで、帝から、管弦の宴の開始が告げられる筈であった。
 一同、それを伏して聞く。
「咲き競う花は美しいもの」
 だが、帝から発せられた言葉は、誰もが思っていた言葉ではなかった。
「だが、その美しい花達は、毒も持っているようだ」
 ざわついていた声が一瞬で静まる。
「別に、毒を持っていようが、それで美しければ、余はそこに咲かせておくのに不満はない」
 そこで帝の声が途切れた。
 その間が痛いほどに感じられる。
「しかし」
 帝の言葉がゆっくりと、その場に響き渡る。
「その毒が余の愛でる一輪の清楚な花を汚そうとするのなら、余はその毒花を刈り取る事にいささかも躊躇はせぬ」
 帝の声に、一同が緊張を漲らせる。
 秋良はいつも承香殿で見せるのとは全然違う、洋也の態度に、そちらの方に驚いていた。
 そろそろと顔を見あわせる者が多い中、洋也は静かな口調に変えて、宴の開始を宣言した。
 雅楽の音色が雅に響くが、女御の中には静かに退席する者がいた。それを誰も引き止める者はいなかった。
 
 
 夜、洋也が承香殿を訪ねると、秋良はぷいと横を向いた。
 その姿に、洋也は苦笑する。
 酒肴を用意する夏月も、今夜ばかりはそんな秋良を叱れないでいた。
「咲玖来が知らせてくれた。よく、我慢してくれた。ありがとう」
「別に、あなたのためじゃない」
 心にもないことを言って、秋良は唇を尖らせる。
「ここにばかり……来るからいけないんだ」
「私に他の女御のところへ行けと?」
 洋也に言われると、ずっとそればかりを思っていた秋良だが、何故かきりりと胸が痛んだ。
「そうだよ。…………公平にすればいいんだ」
 ちくり、ちくりと胸が痛む。
 その痛みの正体に秋良は気づかない。
「私は、一輪しか要らぬ。そなただけがいればいい」
 ぐいと手を引かれた。
 秋良は抵抗せずに、洋也の腕の中に落ちてきた。
「大切過ぎて、今だに摘む事ができぬが、……欲しい」
「…………いや……だ」
 それは怖い。それは知らない。
 胸の中で秋良が見上げ、その瞳に怯えの色を見て、洋也は力を抜くように笑った。
「唇だけ、……その蜜を……」
 近づいてくる顔に、秋良は瞳を閉じる。
 だから、その時、洋也がどんなに幸せそうな顔をしたのか、秋良は知らない。
 触れ合わせた唇が、とても甘くて、秋良は洋也の袖に縋るしかできなかった。