管弦の宴の後、秋良の洋也に対する態度に、わずかな変化は確かにあったが、それでもまだ秋良は洋也を受け入れられずにいた。
 心の中では、頼れるのは洋也だけなのだとわかっているが、かといって、このまま女としてここで暮らすということが、まだ受け入れられない。
 家でもずっと屋敷の奥深く、言葉を交わすのは家族と使用人のみという生活ではあったが、もちろん男として暮らしていた。
 着るものも、習い事も、勉強も、男の生活をしていたのだ。
 それがある日突然、女としての立ち居振舞いをしなくてはならなくなった。最初はお咎め覚悟で乗り込んできたので、女としての生活がこれほど長引くとは思ってもみなかった。
 だから、色々と不具合も生じてくる。
 咲玖来はまだ秋良が男だという事に気がついてはいないようだが、このままでは、秋良の言動からばれてしまうと夏月が心配しはじめた。
 咲玖来は信用できるが、秘密はどこからか漏れてしまうもの。ならば、安藤家からつけてきた女房達だけで守らなければならない。
 洋也がつけた女房達を下がらせてから、夏月による女性としての教育が始まる。
「秋良様」
 溜め息をつくように、夏月の指導は、日毎に厳しくなるばかりだ。しかも、秋良が気持ちのどこかで洋也を受け入れた頃からは、特に厳しさを増していた。
「できないよー」
 特に、琴は秋良が苦手とする筆頭にあがる。
 家では兄や姉に笛を習っていたが、琴は習っていない。
「どんなへたくそが弾いているのかと思われます」
 ざわざわと騒がしくて、漏れ聞こえる琴の音など聞いてられない時間を選んでの練習ではあるが、これほど下手なら返って気になって聞いてしまうのではないかと、夏月は心配する。
 秋良は右手と左手が思うようにかみ合わず、自分で聞いていても、笑ってしまうと思ってはいるが、嫌々やっていることにそこまで言われたくはないというのが本音だ。
「こんなの、誰に聞かせるわけじゃなし」
「毎日政務でお疲れの帝をお慰めするためです」
「これ聞いたら返って疲れちゃって、来なくなるかも。いいな、それ」
「秋良様!」
 夏月の叱責に秋良はびくりと首を竦める。
 父親や母親に大切に育てられた秋良にとって、今一番怖いのは、実は夏月だったりする。
「夏月様」
 じろりと夏月が秋良を諭そうと居ずまいを正した時、几帳の外から夏月を呼ぶものがいた。
「はい」
「帝からお使いの者が」
「すぐに参ります。秋良様、ここのところ、私が戻ってくるまでにしっかりおさらいしておいてくださいませね」
 夏月はしっかり秋良に言い置いて、部屋を出ていった。
 秋良はこれ幸いと、指から爪を外した。
「指が痛くなっちゃった」
 指先をこすり合わせ、秋良は一番上の着物を脱いだ。やれやれと腕を伸ばして、几帳の隙間から庭を眺めた。
 外は桜が散り始めている。
 美しく整えられた庭に、花びらがちらちらと舞い降りている。
 明日の朝にはまた掃き清められてしまう。散り終わるまでそのままにしておいて欲しいなと言ったら、「できません」とあっさり断られてしまった。帝に清めていない庭は見せられないと言われたのだ。
「いまのうち」
 秋良は足袋も脱ぎ、そっと土に足をおろす。ひやりとした土の感触が気持ちいい。秋良は裸足で庭を駆け回るのが大好きだった。
 辺りに人の影はない。
 縁側からいつも見ていた一番大きな桜の木に手をかける。
 背伸びをすると、低い枝に手が届く。
 屋敷では男として育った。庭が秋良の世界のすべてだった。
 だから、この木に登るくらいは難しいことではなかった。
 
 
「秋良様、お琴の音が聞こえませんけれど……」
 夏月が几帳を越えると、そこには抜け殻があった。
「秋良様?」
 秋良の着物を持ち上げても、もちろんそこに秋良が隠れているはずもない。
「秋良様!」
 夏月は慌てて辺りを見回す。そして縁側で足袋を見つける。
「秋良様ー」
 庭に下りたのかと身を乗り出すが、秋良の姿は見えない。
「秋良様!」
 何度も名を呼んでいると、咲玖来がどうしたのかと出てきた。
「咲玖来様、秋良子様を見かけませんでしたか?」
「秋良子様を? いいえ。…………おられませんの?」
「………………はい」
 夏月は着物を握り締めてうろたえる。
「承香殿からは出られませんから、お探ししましょう。きっと、その辺におられますわよ。ご自分から出ていらっしゃるかも」
「でも、もうすぐ帝が……」
「帝が?」
「お越しになるんです。今日はお昼からはご予定がないので、こちらにお越しになると、今、使いが」
「秋良子様はそれをご存知?」
「いいえ」
 夏月も今聞いて、慌てて戻ってきたのだ。そうしたら秋良がいなかった。秋良が帝が来るから逃げ出したとは思えない。
 けれど……。
 普段の秋良の態度から、そう取られても仕方ない気もする。
「お探ししまょう。すぐに見つかりますよ」
「帝に秋良子様がお咎めがあるようなことは……」
 逃げ出されても秋良の心配をする夏月に、咲玖来は力づけるように微笑む。
「帝が秋良子様をお叱りになるわけがありませんわよ。ね?」
 先触れが来たからには、帝が来るのはまもなくだろうと、女房総出で探すことにしたが、秋良の姿はちらりとも見つからない。
 次第に皆が焦る様子を、秋良は木の上から困って見ていた。
 最初は見つからなければもう琴の練習をしなくていいと簡単に考えていたが、、思わぬ大きな騒動になって、木から降りれなくなっていた。
「どうしよう……」
 下りるなら早い方がいいと思うのに、どうしてもそのきっかけを掴めなくなっていた。
 
 
「どうした。珍しく騒がしいな」
 女房達がわらわらと出入りするのに、唐突に現れた帝は、少し驚いたように眺めた。
「今上」
 慌てて平伏する。
「何かあったのか? 咲玖来」
 名前を呼ばれて咲玖来は迷いながらも顔を上げた。秋良のいないことを、この人にごまかせるわけもない。
「実は……、秋良子様のお姿がどこをお探ししても見つからず……」
「何!?」
 一瞬にして顔色を変えた洋也は、秋良の着物を抱きしめるようにして震える夏月を見た。
「着物を脱いで行かれたのか?」
「は、はい。……着物と、足袋だけが、……お部屋に」
 夏月の声は震えていた。
「…………」
 洋也は秋良が下りたと思われる庭を見回した。
 そして、ふと、その場にあるはずのない色に目を止める。
「見つけたぞ」
「え!?」
 あれだけ皆が探しても見つからなかった。
 それが、どうして……。
 呆然としている女房達の前で、洋也は足袋が汚れるのも厭わずに、庭に下りた。そして、迷いもなく、一本の桜の樹の下に歩み寄る。
「桜の精になってしまわぬうちに、我が手に戻って欲しいな」
 どうして見つかったのかと驚いて見ていた秋良だが、差し出された洋也の手をとった。
 そっと下りようとすると、ふわりと抱き上げられた。
「うわっ!」
 突然のことに驚いた秋良は思わず大きな声を上げてしまう。
「お、下ろして。下ろせよ」
 秋良が暴れても、帝はしっかりと抱きしめ、揺らぐ様子もない。
「綺麗な足を傷つけては大変だ」
「ここまで歩いてきたんだってば」
 尚も秋良は暴れるが、とうとう建物に着いてしまった。
「秋良様!」
 部屋まで洋也に抱かれて戻った秋良に、夏月は慌てて駆け寄る。
「ごめん、夏月。困らせるつもりじゃなかったんだよ。木に登ったのを見つかると、叱られると思ったから」
「姫を叱らないでやってくれないか。あの見事な桜は、私でも登りたくなる」
「お優しいお言葉、夏月、確かに受けたまわりまして」
「ついでに琴の練習もさせるなって、頼んで」
「秋良様!」
 秋良と夏月の会話に、洋也は朗らかに笑った。
「笑うことないじゃないか。もう、下ろしていいよ」
 もう部屋に戻ってきて、足が汚れる心配もない。既に汚れている足も気になるが、それは洋也も同じだろう。すぐに足を洗う湯も運ばれてくるだろう。
「まだ桜の樹に姫を奪われそうだ」
「そんなわけないじゃないか」
「いつもいい香りだが、今日は特にいい香りがする。桜の香りだな」
 耳元に顔を寄せられ、秋良は慌てて押し返そうとする。まだ洋也に抱かれたまま、しかも周りにはまだ何人か女房がいる。
「もうーーー。あ、どうして木に登っているってわかったの?」
「桜の花の間に、緋色の袴の色が隠れ見えた」
 それに……。と、帝は秋良の耳元で囁いた。
『男が木に登るのは、当然の悪戯だから』
 その言葉に秋良はくすっと笑う。
 同じ男だからわかった。それが何故だか、嬉しかった。
 その僅かな油断の間に、秋良の唇は盗まれた。
「花盗人の気分だ」と囁いた洋也の言葉で……。