日を追うごとに秋良の洋也に対する態度は和らぐようになっていた。
 それでも、気持ちで洋也を頼るのと、洋也をすべて受け入れるのとは、一緒にはならなかった。
 洋也が来ればほっとするのだけれど、一緒の褥で寝ることには抵抗が消えたわけではない。
 なにしろ気を抜けば、悪戯な手が衿を緩めようとするし、ぼんやりしていると唇を盗まれる。
 どれだけ怒っても、洋也は楽しそうに笑うだけだ。そしてすぐに謝って、それ以上に甘やかしてくれるので、いつも有耶無耶のうちに抱きしめれて眠ることになってしまう。
「このままでいいんだろうか……」
「何? 寒いか?」
 今も洋也の腕の中で抱きしめられて、あやすように背中を撫でられていると、心地好い眠りが訪れそうになって、そんな自分に疑問を投げかけると、心配そうな声がして柔らかい布団を肩まで引き上げられた。
 春になったとはいえ、夜になれば冷え込むので、この人肌の温もりが離せずに困ってしまうのだ。
「寒くないけど……」
 そういえば……と、秋良は重い目蓋を持ち上げて自分を抱きしめる人を見上げた。
「ん?」
「貴方の寝顔って、見たことがないな」
 いつも自分が先に寝てしまう。そして朝は気がつけば、彼はいない。
「姫は寝つきがいいからねぇ」
 洋也は楽しそうにクスクスと笑う。
「姫って言うな」
 秋良が嫌がるとわかっていて、洋也はわざと姫と呼ぶ。
 秋良の怒った顔、笑った顔、拗ねた顔、恥ずかしそうな顔、いろんな顔を見ていたいと思う気持ちが、秋良を甘やかし、からかい、照れさせてしまう。
「いつ寝てるの?」
「秋良が寝るのを見届けてから眠っているよ」
「じゃあ、いつ起きるの? いつも早いよね」
「昔から早起きの習性がついてしまっててね。辺りが白み始めると目が覚めてしまう」
「ふーん……」
 感心しきりで頷いてから、ふと疑問が浮かんだ。
「え、じゃあ、着替えは……?」
 帝が一人で着替えるとはとても思えない。かといって、ここだと自分が寝ている。侍女が来たとして、寝顔を見られているのだろうか……と血の気が引く思いがした。
「隣の間でしているよ。夏月か咲玖来がついてくれてる」
「そうかー」
「あなたの寝顔は誰にも見せないよ。と言っても、きっと夏月に起こされているだろうから、私の独り占めというわけにはいかないんだろうけれどね」
 すっかり見透かされているが、一応否定だけはしておきたかった。
「ひ、一人で起きてるよっ」
「そう願いたいね」
 それでも、秋良の強がりだとばれているらしく、洋也は楽しそうに笑って聞き流した。
「明日の朝からは起こせばいいじゃないか。着替えの手伝いはできないけど……さ、見送りくらいは……」
 秋良が気まずそうに言うと、洋也はとても驚いたように秋良をじっと見つめた。
「な、なんだよ」
「本当に起こしてもいいのかな?」
「い、いいよ。頑張る」
 朝の明るい中でのうのうと寝ている顔を見られたくなくて言った言葉だが、思いのほか洋也が喜ぶので、今更止めたとは言い難い。
「ありがとう」
 ぎゅっと抱きしめられて、秋良は慌ててしまう。
 たったそれだけのことで、こんなに喜ばれるとは思ってなかったのだ。
 頬に額に口づけられて、秋良は顔を隠そうとするが、それよりも早く洋也に顎を支えられてしまう。
 優しい唇はとても暖かくて、嫌だと突っぱねることはできなかった。


 結局、翌朝目覚めたのは夏月に起こされて、すっかり明るくなってからのことだった。
「起こせって言ったのに」
 少しばかり残念で、少しばかり腹が立って、つい不満を口に出してしまう。
「起こしておられましたよ。もう少しと仰って、お布団を被ってしまわれたんですよ、秋良様は」
「うわー、最悪。夏月も起こしてくれればよかったのに」
 どんな風に自分がしたのかを想像して、秋良は脇息に顔を伏せた。
「そのままでと仰って下さったのですよ。朝の早い自分にあわせることはないと。勿体無いお言葉ですわよねぇ」
 それでも約束とは違うのじゃないかと秋良は首を傾げる。
「秋良様ももっと帝にお優しく接しないと、愛想を尽かされてしまいますわよ」
 決してわがままではないのだが、甘やかされている自覚の薄い秋良を、夏月は軽く諌めるだけのつもりだった。
 最近の秋良は帝に心を許し、傍で見ていても微笑ましく感じるほど仲の良い時もある。
 だからこそ、側室として帝を精神的に支えて欲しい。甘えるだけでなく、心の拠り所として、癒せる場所でいて欲しいと願っている。
 けれど、夏月がそう言った日から、ひそひそと囁かれる噂があった。
 最初はただの噂だった。もちろん秋良の耳にまでは入らなかった。しかし噂が単なる噂ではなく、ある程度の信憑性を帯びてくれると、秋良子姫に聞かせようと聞こえよがしに、大きく、広がっていった。
『帝が新しく御側室を迎えられる』
 まさか。
 誰もがそう思ったが、相手が皇族に繋がる安奈姫だと具体的に名前があげられるようになると、嘘では聞き流せないようになっていた。
 そして日取りまで決まったと伝え聞くに至っては、最早それは動かし難い事実となった。
「秋良、大切な話があるんだ」
 それまではどんな噂を聞いても、秋良は洋也に確かめることはしなかった。
 頭の中では、側室を迎えるのなら自分を家に帰してくれと、そう言えばいいのだと考えているのに、いざ洋也を前にすると、事の真相さえ確かめることはできなかった。
 噂されていることは本当なの?
 そう聞けばいいだけのことなのに、帝が側室をと思うだけで胸が苦しくなった。
 そんなのは嘘だと言って欲しいと、心のどこかで願っている自分を感じ取って、秋良はうろたえた。
 そんことは願っていない、自分が願うことは、ここから帰ること。そう自分に言い聞かせる。
 だから、大切な話があると切り出されたとき、秋良は思わず首を振ってしまった。
 聞きたくない。
 洋也の口から聞かされたくない。
「秋良、大切なことなんだ」
「嫌! 聞きたくない。聞きたくない! 夏月! 夏月!」
 人払いされた寝間で、秋良は必死で夏月を呼んだ。
「秋良子様?」
 心配そうに夏月が顔を出した。
「夏月、胸が苦しい。一人で寝たい」
「え、でも……」
 秋良が震える手で夏月の袖を掴んだ。その顔色の悪さからも仮病とは思えず、夏月はどうしたものかと帝を見た。
 本当に秋良が病気なのなら、安藤家から医者を呼ばなくてはならない。御所にいる医者に秋良を診て貰うことはできないのだ。
「秋良、お願いだから、聞いて欲しいんだ」
 洋也がそっと秋良の袖に手をかけるが、秋良は強く腕を引いて夏月へと逃げる。
「気分が悪いって言ってるだろ!」
「秋良様……」
「聞きたくない!」
 とうとう秋良は両手で耳を塞ぎ、洋也に背中を向けた。
「一体何が……」
 夏月は困り果てて帝を見た。
 二人きりにしたほうがいいのだろうか、自分でとりもてるならこの場にいたほうがいいのだろうかと、判断がつきかねた。
「今度、宮家から側室を迎え入れることになった。色々と事情があって、どうしても断りきれなかった。これが最後だ。これ以後の婚儀は何があっても断る。だから……」
「だから何? 僕を帰らせてくれるの? 帰らせてくれるよね? もう必要ないだろう?」
 聞きたくなくても聞こえてしまう。だから、言いたくないことも言ってしまう。
「それはできない……」
 洋也の声が苦しく途切れがちになっているのはわかっていた。
 それでも側室、それも宮家から迎えるのであれば事実上は正室と変わりない。
「秋良様、帝は本来、何人も御側室を持たれるものですわ。失礼ながら、今上のようにお世継ぎのおられない若い帝ともなれば、どの貴族も側室に我が娘をと画策するものですし」
 今更のように側室としてのわきまえを説く夏月に、秋良は首を振って否定した。
「だから、何人でも迎え入れればいいよ。でも僕には子供を生むなんてできないんだから、帰らせてくれればいいんだ。もう、ここにはいたくない」
 自分のわがままだけで帰りたいと秋良が言うならば諌めもする夏月だが、こんなふうに言われると強く叱ることはできなかった。
 実際のところ、寵愛を独り占めにしながらも、懐妊する様子のない秋良に対して、周りの反応は冷ややか過ぎるほどだったから。
「あなたを帰すことはできない。それだけは何度言われようとも許すことはできない。しかし、今回だけは許して欲しい。婚儀からの三日間だけ、私はここに来ることができない。その間だけ待ってて欲しい」
「意味がわかんない!」
「あなたの怒る意味を、今の私は自分の都合のいいように考えてしまいそうだ。だから、この意味を教えてあげることはできない」
 洋也はそっと秋良に近づき、その背に手を置いた。びくりと震える背中を包むように抱きしめた。
「秋良様、帝を信じてください」
 夏月はそっと秋良を押し出し、帝の腕に手渡すと、自分は部屋を出て行った。
「秋良」
「何も聞きたくない。何も言いたくない」
 それからはまた耳を両手で塞ぎ、頑なに洋也の話を拒否した。
 秋良を抱きしめながら、せめて眠りに誘おうとするが、秋良はうとうとしながらも、洋也の優しい手を拒み続けた。
 これが自分の望む秋良の気持ちの変化ならばいいのにと洋也は願いながら、一晩中まんじりともせずに、秋良を抱きしめ続けた。