安奈姫の入内が厳かに執り行われた。
 もちろん、秋良はそれを見ることはできなかったが、今日が「その日」だということは聞かされていた。
「明日から三日間、ここには来れない」
 前日の夜、帝は背中を向ける秋良にすまなそうに告げた。
 帝から側室を迎え入れることを聞かされたあの日から、秋良は洋也に話しかけることはなくなっていた。
 何を言われてもひたすらに俯き、自分の顔を隠した。
 洋也もそれを咎めることはなく、かといってそんな秋良に嫌気がさす様子もなく毎夜通い、人形のように感情を見せなくなった秋良を抱きしめて眠るだけだった。
 三日間。婚礼の儀式に際して、その三日間は大切な意味を成す。
 どの姫との婚儀にも、帝はその三日間だけは儀式として通い、三日夜の餅を分け合った。
 ただその後にも通ったのはただ一人だけ。
 それは秋良にもわかっていた。
 帝の寵愛を受けているのは秋良子姫だけ。そう言われていたから。
 けれど、これからもそうだとは思えなかった。
 昼には帝から珍しい菓子が届けられた。今夜来られないお詫びの品物だろう。
 そんなものは欲しくないのに……。秋良はそれを見るのも嫌で、お付きの女房たちに分けた。
 皆は喜び、帝の優しさを褒め称えた。思い出したくないから贈り物を遠ざけたのに、反対に思い出させられて、余計に辛くなった。
 夜は一人で布団に寝る。
 布団はとても柔らかく、清潔で、広く……。
 そう、こんなにも広いのだとは思わなかった。広い分寒々しく、冷たく、秋良の睡眠を拒むように感じられた。
 寂しい……。
 そう感じた途端、秋良の心の中には別の恐怖が襲ってきた。
 自分の心の中に潜むその思いに気がついたとき、秋良は寒さではなく、恐怖に身体を震わせた。
 横になる自分の胸の上に、それらが覆い被さり、襲ってくるようで息苦しくなった。
 僕は……なんと、罪深い……。
 ぎゅっと目を閉じても、心地好い眠りは遠ざかるばかりだった。


「秋良子様、お客様ですわ」
 咲玖来の声に、脇息に凭れてうつ伏せていた秋良は、はっとして顔を上げた。
 わざわざお客様として通される人物とは誰だろう。秋良はどうしていいのかわからずに、几帳の中へと身を隠した。
「秋良子様、どうぞ、出ていらしてください」
 夏月の楽しそうな声に、秋良はそっと顔を覗かせた。
 承香殿に通されてきた二人を見て、秋良は几帳から飛び出してきた。
「お母様! お姉様!」
 秋良は転ぶように二人の膝元へと駆け寄った。
「まあ、秋良子様、はしたのうございます」
 姉の日名子が久しぶりに会えた秋良を見て、涙を浮かべながらも、それを隠すように軽く叱る。
「どうぞご家族様で御ゆるりと」
 二人を通してきた咲玖来が、母と姉、夏月を残して下がっていく。身内だけで積もる話をという配慮だろう。
「元気だった?」
 家族だけになり、母親が秋良の頬に手を添える。柔らかく暖かな手に撫でられて、秋良ははらはらと涙を零した。
「お母様」
「まぁ、そんなに泣かないで。幸せな女御様がそのようにお泣きになるのはおかしいわ」
「そうよ。帝の御寵愛ぶりは私達の耳にも届いているのよ」
 二人に慰められるように言われて、秋良は泣きながら首を振った。
「帰りたい……帰りた…い」
 小さな声で忍び泣く秋良に、母と姉は顔を見合わせた。
「ここにいるのは……いやだ」
 母は袖で秋良の涙を拭き、優しく語りかけた。
「秋良、何が辛いの? 帝が新しく女御様をお迎えされたこと?」
 問われて、秋良は首を横に振った。
「だったらどうしたの? 帝はあなたのことを大切にしてくださるでしょう?」
 それに首を横に振ることはできなかった。
「あなたがこの三日、とても寂しい思いをするのではないかとご心配くださって、陛下は私達にあなたと会ってやって下さいとお願いくださったの」
「あの人が……?」
 気持ちばかりが塞いでいた。確かに憂鬱な時間に、自分を持て余していた。
「畏れ多いことだわ。本当なら、三日間だけあなたを帰してあげたいのだけれどと、仰ってくださったわ。けれど、今のあなたを帰すのは、自分が心配しすぎておかしくなりそうだからできない、申し訳ないとまで仰せられたの」
「今の僕じゃなかったら帰れるの? いつになったら帰してもらえるの?」
「あなたがうちに帰っても、必ずここに戻りたいと思えるようになったら、ではないかしら?」
 姉の推察に秋良は首を横に振った。そんな日が来るとは思えない。
「あなたを入内させた時は何もかも覚悟していたけれど、あなたはここで落ち着いて、少なくとも不幸せではなく、帝に愛されて暮らしていけそうだと思っていたの。何があなたを苦しめているの? 私達にはどうしようもできない?」  母や姉を心配させているとわかって、秋良はぐっと涙を堪えた。
「きっといつか帰れるよね? それまでは我慢する。きっともうあの人も来なくなるし。夏月がいてくれるから、大丈夫」
「秋良、陛下を信じなさい。あなたを大切にしてくださっているでしょう?」
 幼い頃の出会いから、ずっと秋良を大切にし、ありえないほどの手段を取ってでも傍にと願ってくれた人。
 夏月からの報告で、秋良が男だと最初から知っていても望んでくれた。男同士ということに拘りがないわけではないが、あのまま屋敷に閉じ込めておくよりは、ここで大切にされるほうが幸せなのではないかと思えるようになった。
 帝という立場から、世継ぎが必要で、他に側室は必要だろう。女御としての心得のない秋良に、そういうことはこれから教えていかなくてはならないが。
 それでもなお、帝が秋良一人に注いでくれる愛情を思えば、贅沢な悩みだろう。
 今日も自分たちをここに呼び寄せ、秋良の寂しさを癒そうと気遣いをしてくれる。昨日に引き続いて、今日は渡来物のお菓子を届けてくれている。
 星の形に似たその甘いお菓子は、ほろほろと口の中で蕩けた。
 はじめて食べた甘さに、母や姉は感動したが、秋良はとうとうそれを口にすることはなかった。
 一つずつをもらい、後は箱に残して、秋良の文机に置く。
「また明日も来ますからね。明日はゆっくりお話しましょう」
 今は女御としての心得など忘れさせたいと、家や家族の話をし、夏月にくれぐれもと秋良を頼み、二人は名残惜しそうに帰っていった。
「良かったですね、奥方様も日名子様もお元気そうで」
「……うん。また明日も来てくれるって」
 少し笑った秋良に、夏月もほっとして、寝床を整えた。
「おやすみなさいませ」
「おやすみ……」
 自分が本当に女だったら……。こんなにさびしい夜は、夏月に一緒に寝てと頼めるのに。
 一人で横になると、また布団の冷たさが身に沁みた。
   さすがに二日目になると、眠くないとはいっても、とろとろと浅い眠りを得ることはできた。
 けれど寒さに無意識で伸ばした手は、冷たい敷布を引き寄せるだけで、それではっとして目が覚めてしまう。
 一人きりの夜を確認し、細い溜め息をつき、泣きたくなくて目をぎゅっと押さえる。
 今までがどれだけ幸せだったのか、わかってしまった。
 さびしい。あの人がいないだけで。
 こんなにも寂しい。
 この寂しさを……知りたくなかった。